2018年6月18日月曜日

ドン・ファンが泣いている

 和歌山のドン・ファンなる人物の毒殺?事件が連日のようにマスコミで喧伝されている。しかし彼は本当に世にいわれているような「艶福家」であったのだろうか。4千人の女性に30億円を使った(貢いだ)男という数字が一人歩きしてえらく大層なようにいわれているがしかしこれは単なる錯覚にすぎない。4千人に30億円なら一人当たり100万円にも満たないわけで、この程度のお金をひとりの女性に使う男性は世の中にごまんといる。4000人を40年(お金を自由に使えるようになったのを30歳過ぎとみて)で割れば1年に100人になり4日にあげずお金で女性を取り替えていたことになる。女性と愛を育むという考えは毛頭なく「性欲の対象」としかみることのできない気の毒な人で、自分の魅力に自信がないからお金の力にすがるしかなかった気の小さい人なのだ。もし毒殺されたのが事実なら事件だが、少なくとも公共放送や大メディアが連日取り上げるような話題ではない。メディアの矜持が問われる。
 
 なぜ私が彼にこれほど否定的になるかといえば、ドン・ファンというのはある意味で「男の憧れ」的存在でもあって彼のような人物に「ドン・ファン」という冠を使用して欲しくないのだ。それが証拠にドン・ファンをモティーフとした芸術作品はモーツァルトの歌劇『ドン・ジョバンニ』をはじめモリエールの『ドン・ジュアン』、バイロンの長詩『ドン・ジュアン』、ホセ・ソリーリャの『ドン・ファン・テノーリオ』そしてプーシキン、メリメ、バーナード・ショーなど多くの作家がドン・ファンにまつわる作品を書いていることでも明らかだ。
 若い頃、「ヒモ」と「高等遊民」に憧れた。ヒモはご存知の通り女に食わせてもらっている甲斐性なしの男というのが一般的なイメージだが、別の面から見れば女性が貢ぎたくなるほどの魅力を持っている男という側面もありまた放っておけない母性をくすぐる存在ということもいえるわけで、おとなにならざるをえない年齢に達して「怯み」を覚え「モラトリアム(社会的責任を一時的に免除あるいは猶予されている青年期)」へ逃避したいと願う気持ちが変形して「ヒモ願望」になったのかもしれない。「高等遊民」は明治時代から昭和初期にかけてよく使われた言葉で、大学等で教育を受け卒業しながら経済的に不自由がないため、就職せずに読書や芸術(食うためでなく趣味として)、旅行などをして過ごしている人のことを言った。夏目漱石の『それから』の長井代助、『こゝろ』の先生、川端康成の『雪国』の主人公などがその代表といえる。これもモラトリアムの一種ではあるが職業に就くということが「現状肯定」を前提としているようで、青年期特有のリベラル志向が「現世忌避」を促し、一足飛びに老後の「悠々自適」を夢想させたのだ。ドン・ファンもそうした類型のひとつであったわけで、それ故彼をそうした延長線上に位置させることが我慢ならないのだ。
 もうひとつ、彼が私と同じ昭和16年(1941)生まれということでもひっかかっている。彼のように経済的に大成功したひとは稀有であろう。しかし医療の進歩と社会保障制度のおかげでそれなりに長寿を享受して「いかに生くべきか」と試行の日々を送っている同輩は数多い。私もそんなひとりで彼のような存在は「疎ましい」。彼以外にも同様の老後を過している連中もいないとはいえないがあそこまでエゲツナイやり方はしてほしくない、例外中の例外であってほしいという願いが強いわけである。
 
 ドン・ファンというのはスペインの伝説上の人物でスペインの劇作家ティルソ・デ・モリーナの『セビリャの色事師と石の招客』がひとびとのイメージの源になっている。セビリャの名家の息子ドン・ファンが公爵夫人イサベラ、漁夫の娘ティスベーア、貴婦人ドニャ・アナ、田舎娘アミンダを次々と欺いて犯し、また娘ドニャ・アナの復讐をしようとしたドン・ゴンサーロを返り討ちにもする。そんなドン・ファンがある墓地でドン・ゴンサーロの石像に出会い愚弄するとゴンサーロの亡霊が現れたので食事に招待する(こうした石像の亡霊にまつわる言い伝えが「石の招客」として当時のスペインで伝説として流布していた)。お返しに石像がドン・ファンを食事に招待するとドン・ファンは墓場に現れ食事のあと亡霊に握手を求める。その途端ドン・ファンが業火に焼かれてしまう。神の断罪による劇的な大団円をもったモリーナの〈ドン・ファン劇〉が人口に膾炙し多くの名作を生むことになる。
 ドン・ファンをアルベール・カミュは次のように解析している。
 ドン・ファンは、いつも同じように熱中して、そのたびごとに自分のすべてのものをもって女たちを愛するからこそ、愛を窮める行為を繰り返さなければならないのだ。だからこそ、どの女も、いままでいかなる女も彼に与えたことのないものを彼に差し出そうと望むのだ、と。
 
 最近の「日大アメ・フト部員危険タックル問題」の情報番組で多くのコメンテーターが「生徒」と彼ら部員を呼んでいる。しかし正しい日本語は「小学生は児童、中高生は生徒、大学は学生」と決まっている。ことほど左様に政治家をはじめマスコミの言葉遣いの無神経さは目に余るものがある。「和歌山のドン・ファン」などという用語はその極みであって、モーツアルトも草葉の陰で憤っているにちがいない。
2018.6.18
社会文化 2190文字
655/445 市村 清英)
 
 

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