2019年6月17日月曜日

日本人の「原・心性」

 昨年の9月に『本居宣長(熊野純彦著・作品社)』という本が出た。一見固そうなこの専門書が一部で評判になって11月18日の毎日新聞の書評(橋爪代三郎)にも上った。それは「本居宣長」という数多くの知識人が挑み続けてきた「近世の知の巨人」に係わる明治以来の業績の総目録を専門外の学者(熊野は独仏を中心とした西洋哲学、哲学史が専門)が表したという異色さとA5版本文総頁876ページという長大なヴォリュームが読書好きの挑戦欲をそそったという一面もあったのかもしれない。
 橋爪の書評の影響もあって私も読みたくなったがなんといっても九千円(8,826円)もするうえに、買っても読み通すことができるかどうか自信もないし、たとえ読んだとしても再読はぜったいにしそうにないからできれば図書館で間に合わせたいと図書館の検索をかけてみたが蔵書されていなかった。そうだろう、いくら良い本でも大学の図書館でもない一般人相手の普通の図書館にはふさわしくない本なのかと一旦はあきらめた。一ヶ月たち二ヶ月経ってやっぱり気になって府のほう(いつもはもっぱら京都市図書館を利用している)をチェックしてみると、なんと蔵書リストに上っているではないか。すぐに予約を入れると「待機人数6人」となっている。ちょっと驚いた、こんな本にこれほどの人気があるとは思ってもいなかったからだ(ベストセラーだと200人はザラなのだが)。それから約四ヶ月、五月末に順番が回ってきた。バスと地下鉄を乗り継いで岡崎の図書館へ行って現物を手にしたとき、八センチちかいぶ厚い布表紙の粗い手ざわりの重厚感が「よし!」と気合をみなぎらせた。「ありがとうございます。6月9日までです」。えっ!二週間、これが!「延長はきかないのですか?」「あとに予約が入っていますので…」。
 いつも矛盾を感じるのだが、子供の絵本も小説も、詩人歌人の百ページ程度の本も、ぶ厚い専門書も一律二週間という貸し出し期間はおかしいのではないか?まして、書庫に眠っている何年も借り出した人のない専門書や古い時代の作家の全集などどうして一律二週間でなければならないのか?
 まぁ、そんなことを言っていてもしょうがない、とにかく14日で読み切らなくては。単純に計算して1日65ページ、しかし半分は原文(宣長の文や古事記、源氏物語からの引用)だから50ページでも手強い、よほど心してかからねば……。
 そして14日と3日(3日延滞してしまった)、読了した。私史上最長の専門書を読み切った(小説でさえこれほど長い物は読んだことがない)。達成観が湧き上った。充実感を感じた。予想に違わず「宣長学」の真髄に触れることができた。日本を戦争に追い込んだ「日本神道」が宣長の説こうとした「日本古学」とはまったく別物であることが分かった。ただし熊野はそれを自説として打ち出しているわけではない、彼は資料を提出しているだけでこの書はいわば「厖大な熊野メモ」だ。専門外の学者としての『矜持』、それが熊野の学者としての良心なのだろう。
 
 すべて上つ代の事にも、皆年月をしるし、又甲子にうつして、日次までをしるされたるは、いともいとも心得がたし。そもそもこれみな、後の世よりさかさまに推(かぞ)へて、長暦といふものをもて定めたりと、世の人はこともなげに思ふめれど、まず御世御世の年の数も、伝へ伝へのかはり有て、さだかならねば、其年といへるすらうたがはし(『真暦考』)。(p690)
 以前から不思議に思っていたことだが、文字もない文書としての記録が残っていない「古史」の事跡の歴史的時間がどうして一日も違わず特定することができるのかと。宣長はそれを学者にもかかわらず恥かしげもなく疑問を呈して、後代のものが当てずっぽうで歴史のない時代を暦に取り込んで、さも「そうであるかのように」『さかしら』顔をしている輩に苦言を呈している。古ごとは「神を信じるとは、語りかわされるその物語を信じることであり、みずからがその物語のなかで生きることである。(p400)」と諭している。まさしく「上つ代」に接する「正道」であり、神話と天皇を同じ次元に接続することの「誤り」を厳しく叱る宣長の学者としての科学的姿勢の「真率さ」に心打たれる。
 
 「世の中のよろづの事はみなあやしきを、これ奇しく妙なる神の御しわざなることをえしらずして、己がおしはかりの理を以ていふはいとをこ(烏滸…愚かな様、ふとどきなこと)なり。いかにともしられぬ事を理を以てとかくいふは、から人のくせなり。そのいふところの理は、いかさまにもいへばいはるゝ物ぞ。かれいにしへのから人のいひおける理、後世にいたりてひがごとなることのあらはれたる事おほし。またつひに理のはかりがたき事にあへば、これを天といひてのがるゝ、みな神ある事をしらざるゆゑなり(『玉かつま』)」(p623)。 
 わからないこと、信じられないことを「理解」しようとしないでそのままを受け入れるということを「拒否」する性向が我々には具わっている。というか、自分がこれまでに獲得してきた「経験⇒理屈」に当て嵌めないと「安心」できないのだ。それが長ずると「悪い」保守主義に陥ってしまう。しかし悲しいかな我々の大方は安心してしまわないと生きていけないので無意識のうちに『理』ですべてを「理解」してしまおうとする。宣長はそうした姿勢は「から人」すなわち漢人(中国人)の考え方だとして排除する。我々日本人の「原心性」はそうではなかったと「戒め」る。
 
 悪神(あしきかみ)と申すは、かの伊邪那岐大御神の御禊の時、予美国の穢より成出たまへる、禍津日神と申す神の御霊によりて、諸の邪なる事悪き事を行ふ神たちにして、さやうの神の盛に荒び給ふ時には、皇神(すめかみ)たちの御守護(おんまも)り御力にも及ばせ給はぬ事もあるは、これ神代よりの趣なり。(中略)世の中に、死ぬるほどかなしき事はなきものなるに、かの異国の道々には、或はこれを深く哀むまじき道理を説き、或は此世にてのしわざの善悪、心法のとりさばきによりて、死して後になりゆく様をも、いろいろと広く委く説きたる故に、世人みなこれらに惑ひて、其説共を尤なる事に思ひ、信仰して、死を深く哀むをば、愚なる心の迷ひのように心得るから、これを愧て、強て迷はぬふり、悲まぬ体を見せ、或は辞世などいひて、ことごとしく悟りきはめたるさまの詞を遺しなどするは、皆これ大きなる偽のつくり言にして、人情に背き、まことの道理にかなはぬことなり(p865)。
 宣長は「からごころ」と儒仏の考え方を「排除」して、我国の「原心性」に帰れ!とくどいほど諭す。漢人の理屈、儒学のいう「聖人の道」、仏の説く「悟り」を「こだわり」としてそれからの『解放』をすすめる。それは今、世界を不安定に導いている一神教――ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の「原理」の『不都合』をも解放の対象としているにちがいない。
 宣長のいう「神を信じるとは、語りかわされるその物語を信じることであり、みずからがその物語のなかで生きることである。」という多神教への回帰は西洋にあっては「古代ギリシャの多神教」にも通じるだろう。
 
 「断章取義(だんしょうしゅぎ」、文章の一部を自分の都合のいいように引用すること。経済なり政治なり、今の世の中この断章取義と「フェイク・ニュース」で溢れかえっている。深い学びと素直な心を説く宣長の教えは今でも決して古びていない。
 
 
 
 

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