2019年6月24日月曜日

学校を良くする唯一の方法

 天の原富士の煙の春の色の霞たなびくあけぼのの空これは新古今集にある慈円のうたである。歌意は「大空は、今、富士の山の噴煙がいかにも春だといった感じの色の霞の中にたなびきとけこんでいる曙の空だ。(小学館・日本古典文学全集43『新古今和歌集』より)」となる。慈円は1200年頃の人だから800年前に富士山が噴煙を上げている様を詠っているわけで、地球の歴史からいえば800年などつい昨日のことといえるほどの時間になろう。京都についていえば1830年8月19日(文政13年7月2日)にM6.5規模の直下型地震が起っていて死者280人負傷者1300人、二階建ての家屋のほぼすべてが倒壊したと記録にある。これはまだ200年も経っていない前のことであるから「京都は安全」などとはとてもいえないことが分かる。
 18日新潟、山形地方にM6.7、震度6強の地震があった。「3.11」以降全国各地で大規模な地震が頻発している。富士山ばかりかわが国は火山国であり地震国である、いつ大噴火があっても不思議はない。そうであるにもかかわらず、17日福岡地裁は九州電力川内原発に係わる半径160キロ以内にある5つのカルデラの噴火被害に関する原子力規制委員会の「安全判断」は合理的であるという判決を出した。もし規制委員会の判断に異論をはさむのならその科学的根拠を原告側が提示しろというのである。
 地震国火山国の我国に50以上の原発があり、これだけ地震が頻発し南海トラフでM7以上の巨大地震が30年以内に発生する確率が70%以上と喧伝し、その予知のために何兆円という予算をかけて学者連中と学会、大学が研究しているにもかかわらず、「だから、原発に及ぶ危険性は甚大なものがある」という『警告』は一度もだされたことがない。
 万が一、いや三十分の一、南海トラフ地震が発生して原発が「過酷事故」を起こしてもこの国の政治、行政は責任を負う体制になっていない。すべてが「他人事――ひとごと」なのだ。
 
 さて本題に入ろう。わが国の教育制度――学校を良くする唯一の方法。それは文部科学省の役人や全国の学校の先生、ひいては役人のすべてが「わが子をいかせたい」学校に「公立学校」を改革すること、これしかない。これまで中央教育審議会ほか多くの機関が「教育制度改革」を提案し実施されてきたが、改善は果たされず実質的には改悪の度を深め子どもたちの「教育格差」は拡がるばかりだ。なぜか?それは制度に携わっている役人たちが自分の子どもを「私立名門校」に通わせ、そのうちの何割かは東大(京大)に入学させたことを臆面もなく「誇らしげ」にすまし込んでいるのをみれば分かるだろう。これでは「改革」がうまくいくはずがない。私の周囲には教授や教員と呼ばれる人たちが多くいるが、そのなかには教育委員会の役人も少なくないが、そのほとんどは「私立名門校→東大(京大)」コースに子どもをはめこんでいる。そして、それに関して罪悪感を表している人はひとりも見当たらない。
 彼らにとって教育改革は「他人事――ひとごと」なのだ。これでは学校が良くなるはずもなく、教育改革が進捗することは望むべくもない。
 
 一方でここ何年か、東大卒の役人や政治家の不祥事が相次いでいる。そのたびに耳にするのが「東大のすべてが悪いわけではない。彼らはほんの一部の人なのだ」という言葉、「勉強が良くできる人たち」だから良い仕事ができるはずだ、とも。本当だろうか?五十年前、私は東京の広告会社に就職した。丁度広告産業の興隆期にあたり東大京大卒の人材が他企業から引き抜かれ多数中途採用されていた。勿論新卒採用にも東大京大卒は少なくなかったが、そこで私が知ったのは、東大京大卒といえどもズバ抜けているわけではない、ということと、私の知らない学校を出た人の中にも素晴しい人材が多くいるということだった。広告会社だから役人を根っから避けているような異色な連中ばかりだったから参考にならないが、中途採用の中年の人たちは広告会社という環境になじめない人が多かった。そのうち広告会社が就職希望者の人気業種になって、各校のトップスリーであったりトップテンクラスの採用が多くなっていった。二十年ほど前、その会社の偉いさんになっていた同期の連中とあって話したとき(私は早くに退職していた)、この頃の若い連中は頭ばかりが良くって面白い奴が少なくなったとこぼしていたのが印象に残っている。
 東大や京大の人たちを「頭がいい、勉強ができる」と評価する傾向が強い。しかしこれは誤っている。「受験勉強が良くできる」人たちと言い直すべきなのだ。勉強ができる、頭がいいのなら、面白くないとは言われないないだろうし政治家や官僚連中の信じられないような『失言』は出てこないはずだ。本当の勉強をしていないから、大学時代に学問をしていないから、ボキャブラリーが不足するし、いい仕事面白い仕事ができないのだ。なぜこんなことになってしまったのか。
 すべての元凶は「共通一次(大学共通第1次学力試験)」にある。すべての受験生がこの試験で高得点を取るためにそれまでの6年(12年)を一直線に突き進んでくる。当然学校もその線に沿って特化していく。ところがこの試験はきわめて特殊なもので現職の教師――大学の教授でさえ解くのが難しい試験で、むしろ予備校や塾の講師のほうが回答を導く能力を有っている。という事はこの試験が如何に特殊なもので、受験生の持っているであろう能力のほんの一部分しか『判定』できない試験になっていることを証明している。実際最近も京都のある経営者が、東大京大卒といっても企業で役立つ人材とはいえないと発言して自前で大学を持ってしまった。企業に役立つかどうかは大学教育とは直接は結びつかないから全面的にこの経営者の考えを良しとはしないが、共通一次の問題点はついている。「共通一次」を即刻廃止してもっと多面的に、各大学の教育方針に合致した能力を判定できる試験体制に『改革』すべきなのだ。AIや人工知能が本格的に導入されようとしている現在、共通一次で選抜される「能力」はそれらに『代替』される可能性の極めて高い能力を判定する試験である、と言っても過言ではない(これについて詳細はここでは言及しない。別の機会に論じたい)。
 
 「他人事――ひとごと」といえば今国会で論戦が交わされている「年金問題――老後資金2000万円問題」も結局そういうことで、年金などアテにしていない政治家や七十才になっても七十五才になっても高給で安泰な天下り先で生活が保証されている官僚が制度を司っているから「机上の空論」ばかりで、高齢者の約二割も占めている国民年金頼りの人たちのことなど一顧だにしていないのだ。
 
 政治家と公務員は子弟を公立学校に入れなければならない、という法律でも作ればこの国の学校制度改革は一挙に解決するだろうが、そんなことのできないことは彼らがいちばんよく知っている。
 
 
 
 
 

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