2019年7月1日月曜日

荒唐無稽

 来年のNHK大河ドラマが明智光秀を主人公に戦国ドラマを描く『麒麟がくる』に決まった。光秀といえば「本能寺の変」――信長暗殺が思い浮かぶがこれについては諸説あり今度のドラマがどう描くか興味あるところである。
 戦国時代を平定した武将として「信長―秀吉―家康」が語られるが人それぞれに好みがある。若いころは単純に最下層の農民から関白にまで上り詰めた秀吉の出世譚に憧れたが社会人の中期になると家康の権謀術数と管理能力に魅力を覚えた。近年少しは歴史を知るようになっていわゆる「教科書歴史」に疑問を抱くようになると、家康の鎖国政策を正当化する歴史観一辺倒で理解できるほどあの時代は単純なものではなかったのではないかと思うようになる。そのような眼で歴史を見つめ直すと「信長暗殺中国陰謀説」などという荒唐無稽を夢想するに至り、酒を過ごして酩酊の度が深まると声高に陰謀説を喚き立てて周りの顰蹙を買うことになってしまう。今日はシラフで自説を開陳したいと思う。
 
 信長は長篠の合戦で700挺とも3000挺ともいう莫大な数の鉄砲を使用したと伝えられているがこの数量はたとえ700挺としても当時の世界最大の「破壊兵力」といって良いものである。加えて石見銀山で産出される銀の生産量は当時の世界総生産量の三分の一を超えており他にも金および銅の産出量も世界有数を誇っていた。もしこの「兵力」と「経済力」で信長が『世界制覇』に打って出ればその野望は決して夢物語ではなかったであろう(信長ほど世界情勢を理解していなかった秀吉も家康も「世界大」での日本経営は構想しえなっかた)。信長のそうした志向は「キリシタン政策」に窺える。信長はキリシタンを許可していないが保護はしている。京都に教会とセミナリオ(学校)が建設され南蛮寺遺跡も残っている。こうした信長の姿勢から世界制覇のためにはイエズス会の世界規模での布教活動を無視することはできない、制圧するのではなく利用する方が得策と考えていたとみる見方も成立する。もうひとつ南蛮貿易に対する信長の意欲は一方ならぬものがあった。鉄砲を使うには硝石(火薬)や鉛が必要で、どちらも日本でとれないため輸入に頼らざるをえずそのための輸入ルートを開発できていたから厖大な鉄砲の生産が可能だったわけで、平和時の銀を主力とした経済力、非常時の火力―厖大な鉄砲による兵力の威力を信長は認識していたにちがいない。それはやがて国内平定を遂げた後に「世界制覇」に野望が拡大したかもしれないと考えてもおかしくない。
 折りしも大航海時代の真っ只中にあって中国の覇権は新興ヨーロッパ勢に席巻され磐石ではなっかた。そこに日本が圧倒的な軍事力と経済力で参加してくるようなことがあれば中国の地位はますます危うくなってくる。わが国の対明貿易には永い歴史があり信長自身も対明貿易で巨利を得ておりそれが基盤となって南蛮貿易に進出できたのだが、それだけに中国はわが国国内にそれなりのインテリジェンス(情報活動)の根を張っていたことは想像できる。そのネットワークを利用して光秀に信長暗殺を働きかけたという「空想」は可能性として一蹴されるべきだろうか。これに比べれば「ジンギスカン義経説」の方がもっと「荒唐無稽」であってその「―義経説」が学者連まで巻き込んでまことしやかに流通したことを考えれば「信長暗殺中国陰謀説」は一顧の価値はあると考えるのだが「荒唐無稽」だろうか。
 
 現状に目を転じれば、トランプばかりか世界中でポピュリズムとナショナリズムが跋扈している。これについても我が「荒唐無稽」を陳べてみよう。
 古代権力が「税金」と「苦役」のために「戸籍」を作成してあいまいながらも「国家」を「画定」してから三千年か四千年、生産力にめざましい変化がないまま十八世紀の半ばに至って「産業革命」が起り爆発的な『転換』が起った。それまでの「自然」に制約されていた生産力がその桎梏から解放され資本力――土地と生産手段を増大すれば「無限」の生産力を手に入れることが可能になったのだ。しかしそれはイギリスを中心としたヨーロッパのわずかな国とイギリスの出先機関――アメリカに限られていた。彼らは原料と労働力を求めて世界の非ヨーロッパ地域=アジアをあさり尽しそれまであいまいだった「国境」を厳密に画定し、まるで地図上に鉛筆で線を引くように植民地や属領を拡大していった。フロンティア――非征服地をめぐる二度の戦争――第一次世界大戦と第二次世界大戦の間に覇権国がイギリスからアメリカに変わり植民地と属領は先進国と同様に「国民国家」に変貌、七十年をかけて経済のグローバル化が起こり「世界の一体化」が加速度的に進展した。
 国民国家は人権の一部を国家に負託する代わりにその他の人権の保障を獲得する仕組みであり人権の「制約」に見合うかそれ以上の「分配」が約束される限りにおいて国家は安定する。ところが戦争による破壊的な『格差解消』が起らないまま七十年もの時が経過して『格差』が『許容範囲』を超えてしまうと「見捨てられた人たち=被差別層」の不満が高まり国家の「安定装置」が機能しなくなってしまった。しかし、支配層――体制内インテリ層を含めて――は解決策を構想できないから被差別層の不満を掬い上げる――吸収する以外に政策を打ち出せなくなっているのが「今」である。すなわち『ポピュリズム』の跋扈である。被差別層は分配を保障してくれていたころの「旧い仕組み=既得権」の恢復を願うから「ナショナリズム」というかたちを取らざるをえなくなる。
 解決策はなにか?これまで「戦争」という『予期せざる―望まざる』装置によって「格差破壊」を起こして一旦格差をチャラにして社会の「再建」を繰り返してきたが、それを人工的に行う他に方法は見当たらない。『再分配制度』の確立、これ以外にない。しかし現在、経済は「国民国家」の枠をはみ出してグローバルに生成しているのだから「旧い国民国家」の枠組みの中では制度は創れない。であるにもかかわらずあくまでも今の「旧い国民国家」を守るのなら「分配の源泉」を世界に拡げるしかない。それはGDP(国内総生産…国内生産に限定した付加価値の総計)からNI(国民所得…国外からの価値の移転を含めた総所得)に分配の基礎を置き直すことであり、そのためには「経済圏」としての国家と「生活圏」としての国家を『統合』するような『国家』を創り出す他に道はない。
 
 それがどんなものになるのか?「人智」を世界大で集めて新しい「国家像」を模索するしかないがそれは結局世界のひとと「仲良く」するということになるのではないか。
 なんという『荒唐無稽』か!
 
 
 
 
 
 
 

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