2019年7月8日月曜日

百歳時代の結婚を考える

 若い頃、「人生結婚二度説」というのを聞いたことがあった。確か林髞(たかしという大脳生理学者で推理小説(筆名木々高太郎で)も書いていた学者の説で本人がそれを実行したのでマスコミが飛びつき一躍有名になった。四、五十代の女性が二十代の男性と結婚し、七十代で女性が亡くなったあと、五十才代になった男性が二十代か三十代の女性と再婚するというようなモデルだった。勿論女性と男性を入れ替えてもいい訳で、性生活を中心に面白おかしくマスコミが書きたてたので青春真っ盛りだったわれわれ世代は酒の席などで大いに盛り上がったことを覚えている。丁度その頃奈良林祥の「How to  Sex」という本がベストセラーになりそれまで「秘めごと」だったセックスが堂々と昼日中話すことに何憚ることのなくなった時代だった。
 「人生百才時代」が大っぴらに語られる昨今、視点を変えて「人生二度結婚説」を考えてみてもいいのではないか。
 
 昭和の説はセックス面から考えて、若い未熟なものが熟達した異性に導かれて充実した性生活を送るということが強調されていたが、今考えようとしているのは「長寿時代の人生を豊かにする」ための「二度説」だ。
 これまでの「結婚」は、種の保存をキーコンセプトとしていた。二十、三十才代で結婚して子どもを最低二人以上はもうけ、子どもを成長させ家庭を持たせて彼らにも子どもを、という繰り返しを「前提=目的」とした「結婚制度」だった。生殖と家庭経営が機能として求められていたから「生活のエンジョイ相手」としての「伴侶=配偶者」という側面は二次的なもの――無視されていたといってもあながち的外れでなかった。平均寿命が七十才代であった頃まではこのモデルは有効だった。しかしいつの間にかそれが延びていって気がつけば八十代後半までになって百才が夢物語でなくなりつつある今、「ふたりだけの時間」が二十年三十年になってくると「価値観」に隔たりのある「生活のエンジョイ相手」としては不適合な相手と「無味乾燥」な「共同生活」、いや単なる「同居人」として暮らすことは決して「ベストチョイス」とは言えないのではなかろうか。
 もしそうだとすれば、ふたりが「家庭の共同経営者」から「生活エンジョイ相手」へ変貌するための努力あるいは約束事を交換するかして同じ相手と一緒に後半生を共に暮らすか、思い切って結婚生活を解消して別の相手と「共同生活」を送るか、のどちからを「選択」することを考えてもいいのではないか。年金分割や相続の問題があるから離婚―再婚という選択が面倒であれば、お互い納得づくで「別居」または「事実再婚」であっても構わない。「卒婚」などというのもこの考えの一種であろう。
 お互いに相当な年齢に達して、セックスレスになって、どちらも健康状態にそんなに不安もない、こんな夫婦がこれからドンドン増えてくるにちがいない。そうでありながら、もう顔を見るのもイヤと思っている夫婦も珍しくなくなっているとすれば、後半生をどのようなかたちで過ごすかについて「社会的な共通認識」が成立してもいいのではないか。そんな意味で「人生結婚二度説」を考えてみた。まだまとまりがつかないが、私の考えと同じような人も多いはずでもっと論を練っていい方向に進んでいくことを願っている。(晩婚化あるいはシングルマザーやファーザーが増えている現状は「種の保存」=「人口問題」から解放された結婚制度についてもっと論議されていい。)
 
 さてそこで少しでもふたりの生活快適度がアップするためのレッスンをしてみよう。先日(6月25日)NHKクローズアップ現代で放送されていた「『夫婦の会話』を科学する~不満解消の秘訣は!?~」はこんなことを教えてくれていた。
 まず夫婦の会話に不満のある人は4割あるという(しかしこれはちょっと少なすぎないか?)。こうした現実を踏まえて番組では、脳科学や言語学などの専門家の知見、そしてAIなども活用して夫婦の会話を分析。浮かび上がってきたのは3つのポイントだった。仕草、話し方、話題を工夫することで、会話の満足度が向上し、夫婦の絆も強まるという結果だった
 最初に意外な研究があった。「夫婦喧嘩は長生きのもと」というアメリカのある研究所のデータで、喧嘩を我慢した夫婦の早く死亡する割合は喧嘩する夫婦のおよそ2倍にも達しているという。これは無視できない数字だ。しかし最悪状態に達していた夫婦が喧嘩をすれば離婚の引き金になるだろうから、喧嘩できるだけの関係を作っておくことが大事になる。そのためにも会話は日常生活のキータームだ。
 もうひとつ言語学者の言っていた「ビジネスでの会話は『交換』、夫婦の会話は『贈与』」という言葉が心に残った。見返りを期待しないで相手を思いやる、相手を喜ばすという心がけが夫婦の会話には必要なのだろう。
 さて最も参考になったのは「離婚する夫婦の会話 特徴的な四つの要素」というものだ。①非難②侮辱③自己弁護④逃避この4つが相手を傷つけ断絶を深めていくという。これは分かりやすい。①と②は相手を攻撃するもの、③と④は自己防御に関係している。攻撃は破壊につながるから日常生活の継続を望むなら用いてはならないものだろう。しかし反省すると無意識のうちに攻撃していることは少なくない。特に「同居人状態」になってしまうと、自分のことばかり考えて自分の環境を乱されることに関して異常に防護的になっているからそれを犯されるとついつい攻撃してしまう。細心の注意が必要だ。③と④は関係修復を諦めている状況になると必然的に多用するやりかたで、「向かい合う」覚悟をつくらねばならない。
 会話の改善策はどんなものがあるのだろうか。①相づちなど②語尾の重なり③雑談④アイコンタクト⑤体の動きや姿勢の五つがあげられている。何気なく雑談が交わせるようになっていればこんなことは考える必要もないわけでそこを目指すために①相づちを打つことからはじめてみよう。「そうやね」「そらそう思うわ」、これだけで会話がスムーズになるのは分かる。語尾の重なり、というのは相づちと同じようなことで「そう思わへんか?」「思う、思う!」というようなやり取りで仲の良い人との弾むような会話には必ずこれがはさまれている。アイコンタクトは姿勢と関係があって、ソッポを向いていてはコンタクトはなくて当たり前で、向かい合って、相手の目をときどき見つめて感情をまじえながら話すようになれば会話は楽しくなってくる。
 どんな会話がいいか?という問いかけに「愚痴」だとか「直してほしいところ」とかを上げて分析していたが設問が不適当だから省くことにする。
 参考になっただろうか。
 
 とにかく人類未経験の「百歳時代」を迎えようとしているのだから「前例」がないことを覚悟して、ふたりで解決していく他ないのだということを知っておくことが肝要だろう。
 

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