2020年10月19日月曜日

新聞が無くなったら

 馴染みの喫茶店の女店主が「サービスで入れてもらっていたスポーツ新聞がダメになりました。コロナで新聞止めるひとが多いらしいから」。意外でした、よもやそんな影響がでているとは。今の若い人は新聞は勿論のことテレビも見ないという、ニュースもエンターテイメントもネットで間に合うらしい。そのうえ年寄りまでとらなくなったら新聞はどうなってしまうのでしょう。この事態は思っている以上に重大な変化かも知れません。

 

 数年前日経が毎週月曜日に掲載していた「景気指標」を紙面から削除、ネットに移動して「経済指標ダッシュボード」に代えてしまいました(しかも有料で)。大げさにいえばこれは世界に誇る日本文化の消滅ではないかと思いました。経営者やサラリーマンや商店主が日常的に必要とする経済指標の40項目ほどが一ページに一覧形式に収録されていて、忙しい月曜の朝に効率的に景気の動向が閲覧でき一週間の仕事の見通しが素早くできる、まさに世界に類のない「発明」だと評価していました。ネットに移ったために一項目ごとにページを開かなければならないからフル項目見るためには相当な時間が必要になり、そうなると必要な二三の項目だけの検索で済ませてしまうようになって全体的な俯瞰をする習慣ができなくなってしまいました。

 日経に何度か復活を申し入れましたが実現されませんでした。

 新聞の最高の「武器」は「閲覧性」にあるのに、その閲覧性の最も価値ある紙面が「日経・経済指標」だったのに、それを放棄して「ネット化」「有料化」したのですから私は日経の購読を止めてしまいました。

 

 新聞のすぐれたところは「閲覧性」に尽きると思います。経済、政治、社会、文化、衛生・健康、文芸と多分野のニュースを「選択」して記事を作り三十ページほどに凝縮して毎日提供してくれるから、小一時間もあれば世の中の動きを網羅的に知ることができます、しかもわが国では宅配してくれますからわざわざスタンドで買う煩わしさもない。こんな便利で効率的な「情報収集手段」は他にありません。加えて少々の偏りは新聞社によって無くもありませんが保守的な記事もリベラルな内容も案配よく提供してくれますからバイアス(偏向)なく情報に接することができます。さらに「社説」で重大と目される動きには社の考え方を交えながら解説と提言をしてくれますから、政治や経済、社会がどの方向に向かいつつあるかの大凡(おおよそ)が把握できます。

 わずか小一時間でこれだけの情報・知識操作ができるメディアはいくら技術が進歩しても今後も出現しないのではないでしょうか。

 

 今問題になっている日本学術会議任命問題を考えるとき、新聞の読者減少と関係があるというとこじつけだろうとそしりをうけるかもしれません。しかし「多様性の拒否」と「行政権の濫用」を任命問題の本質とみればあながち関係がないともいえないのです。

 この問題に関しては昭和58年、当時の中曽根総理大臣の「形だけの任命であって学会のほうから推薦された者は拒否しない」という総理府総務長官の答弁を容認し「独立性を重んじていくという政府の態度は、いささかも変わるものではない」という答弁が昭和と平成(令和)の政治家の学問に対する姿勢の変化を如実に物語っているのではないでしょうか。昭和の時代は学問や科学に対する尊厳の思いが相当深いところで根づいていて、少なくともトップクラスの学者の業績に関しては敬意を表することを当然としていました。学問の独立性を侵すことはあってはならないという姿勢が政治家は勿論、一般市民にもそなわっていました。

 しかし平成が進むにつれて政治――行政を優先する政治家の考えが鮮明になってきて学問を政治の道具とみなす姿勢があからさまになってきました。その根拠は政治は国民の審判を得て国家運営を付託された存在であるから何にも勝る存在であるという考え方であり、その形となったものが「予算執行権」であるというのです。今回の菅総理の言葉にも河野行革担当相にもみられる論理で「10億円という予算を投じているのですからその執行を監視するという意味でも総理が任命権を行使することに何らはばかることはない」と言うのです。

 中曽根さんには、日本を代表する学者の業績を価値判断する能力は自分にはないという謙虚さがあったと思います。そうした学者の団体が選任した委員の当否を判断して任命を拒否する能力は自分にはないという学問と学者に対する尊厳の念がまちがいなくあったのです。ところが今の政治家には(その部下でありブレーンと目されている人にも)行政権(予算執行権)こそ最高位の権威であり、その他のものは行政権の下に位置づけられるという「驕り(おごり)」が歴然とあります。最高裁の判決(一票の格差など)を無視し国会を平然と軽視することに罪悪感さえ感じていないように思われます。ジェンダーだ多様性だと口先ではお題目を唱えますが、本心は選挙で選ばれたことを「白紙委任」と捉えて、少数意見や反対意見を尊重するという民主主義の最低限の「倫理」にまったく気づこうとしないのです。

 

 今放送中のNHKの朝ドラ『エール』で主人公の古山裕一(モデルは古関裕而)が自分の作曲活動は「戦争協力」ではないかと苦悩します。しかし一旦祖国が戦争状態に突入してしまえば妻子や親を守るためにも祖国を守るために全力を尽くすのは当然の行為です。だから、絶対に、祖国が「戦争」に突き進むのを防がなければならないのです。そのためには政治が一方向に「収斂」するのを「制度」として防御する体制を保持しなければならないのです。それが「三権分立」であり「言論・学問の自由」なのです。ところがややもすれば「行政権の暴走」が民主主義のはらむ危険性なのであり、これを自覚していた明治の元勲たちはそれを防ぐための施策に腐心したのですが結局それは破綻して先の大戦に突き進んでしまったのです。

 この反省から戦後の政治体制は二度と戦争という暴挙に陥らないための諸種の安全装置を内蔵しました。日本学術会議もその一つです。それがアメリカから武器を言い値で買わなければならない不合理を武器の国産化をすすめることで解決しようと「軍事研究費の増額」を決めても参加する大学が少なく、一割にも満たない予算の消化しか望めない現状は、学術会議の反対声明が大きく影響していると思い込んで、今回の「任命権の濫用」に至ったのでしょうが、この暴挙は民主主義の根幹にかかわる重大な第一歩となりかねない危険性をはらんでいます。

 

 新聞を読まなくなって、インターネットで自分好みの情報ばかりに囲まれて(エコーチャンバー現象)、総合的俯瞰的な判断をできなくなった国民ばかりになってしまったら、日本はまた「戦争」という「あやまち」を繰り返してしまうかもしれません。

 新聞を読まなくなることの危険性は決して小さいものではない。この私の危惧が年寄りの「思いすごし」であることを祈らずにはいられません。

 

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