2022年2月14日月曜日

勤皇志士の哲学

  八十も超える歳になると浮世ばなれが嵩じて時々飛んでもないことを思うことがあります。発想の飛躍といえば聞こえはいいのですが他愛もない「妄想」にすぎません。先日も「天皇」ということばを考えていて「天子」と「皇帝」の合成語ではないかとフト思いついたのです。もしそうなら中国はもちろんのこと朝鮮だって気を悪くするでしょう、アジアの東端の小国の王に過ぎないくせに生意気な、と。その伝でいえば「中国」だって尊大極まりない呼称です、「世界の中心の国」というのですから。しかし中国は実際蒸気船が発達して欧米緒国が制海権を握るに至る18世紀後半までは世界最大の帝国――文化文明の先進国として、軍事的にも世界最強国として君臨していました。その中国(清)が夷(えびす)――粗野な蛮国、イギリスにアヘン戦争(1842年)でイトも簡単に敗けたのですからその衝撃は強烈で幕末の尊王攘夷運動を加速させたのはまちがいありません。

 

(以下は『現人神の創作者たち(山本七平著)』を要約したものです) 

 アヘン戦争の敗北以上にわが国の思想界に衝撃を与えたのは「大明国」の崩壊でした(1644年)。卑弥呼の時代から遣隋使、遣唐使の時代を経たのちも宋、元、明に朝貢し畏敬してきた中国――この「中華の国」が韃靼の国すなわち「畜類の国」に一変したのですから思想界は混乱しました。

 この混乱を収拾するために浮上したのが、「華・夷」とは文化的水準を意味する一般的基準乃至はその基準を基とした「先進・後進」ともいうべき基準にしようという考えです。この基準で計れば「日本=華、中国=夷」という場合ももちろんあり得ますから、「中国」乃至は「中国思想」を普遍的原理として日本を規定することで混乱を正そうというわけです。そしてこの考えに基づいて、日本的体制それ自体を「中朝」として絶対化する方向へとまず向かったのです。それを代表するものが山鹿素行の『中朝事実』ですがこの傾向は当時の日本の思想界のある意味で共通な認識となっていました(素行は中国と書いて日本と読ませるまでしました)。

 当時の官学は林家の主宰する「朱子学」でしたが朱子学が採用したのが「朱子の正統論」で、まず天皇の正統性が強調され、その天皇から将軍に宣下されたがゆえに徳川家は統治権を行使できる。これに対抗しようとするものは正統性を無視した叛逆者であり、従って徳川家に刃向かうものは叛逆者であるという論理です。では一体なぜ天皇家は正統性をもつのでしょうか。

 林羅山がこの問いに対して出してきたのが「天皇=中国人論」です。天皇は呉の泰伯の子孫、中国から下がってきたがゆえに「天孫」であり、「夷」である日本人を支配する正統性を保持しているというわけです。今では奇妙に聞こえるかもしれませんが、中国思想をもって統治思想とするのがその頃のわが国の考え方となっていたのですから、「華」が「夷」を支配するというこの説はすっきりしていたのです。

 

 徳川政権が落ち着いて日本の「正史」をつくろうとします。それを担ったのが水戸光圀率いる水戸の彰考館であり『大日本史』に結実します。そのときお手本にしたのが中国の正史といえる『資治通鑑』だったのですがここに思わぬ大きな落とし穴が潜んでいました、「将軍」なるものの位置づけができないのです。中国にはそんなものは存在しないからですが、さらに叛臣伝・逆臣伝ともなると幕府に忠誠で天皇に反抗した者(たとえば伊賀光季)の取り扱いなどが当然に問題になってきます。さらに正閏を論じると北朝を偽朝として足利氏を叛臣に入れれば現に存在する天皇家の正統性を否定し、幕府の統治権の根拠も否定されてしまうことになります。これを論理的につめていけば、「幕府の存在は非合法であり、日本の歴史はまちがっていた」という結論にならざるを得ず、これは「歴史の誤りを正す」という政治運動の温床となりうるのは明らかです。

 一方で「天皇の正統性を絶対化するなら、個人の規範はかくあらねばならず、その規範を守ったものは、たとえ非合法政権=幕府の法によって処刑されても正しい」という「個人の絶対的規範(グルント・ノルム)」が求められるようになるのも自然な流れで、それを提供したのが浅見絅斎(あさみけいさい)の『靖献遺言(せいけんいげん)』でこの書はまさに明治維新への突破口を開いた重要な書物になります。そして「ある種の規範を絶対化してそれを行動に移した者は、法で処断されても倫理的には立派である」を論証するような結果となったのが「赤穂浪士」でした。

 

 尊王攘夷を促したもう一つの書物が栗山潜鋒の『保建大記(ほうけんたいき)』で、天皇家から武家への政権の移行は天皇家の「失徳」によると論じました。「あるべき天皇像」として後白河や後醍醐が厳しく批判されるのですが、この「反面教師」の逆で過去を再構成すると天皇家そのものが日本人が考えた「中国型皇帝理想像」になってきて、これが後の「皇国史観」つながっていくですが、それへと誘導したものが水戸の『大日本史』になるのです。結局、「あるべき天皇像」から「日本の歴史の過ちを自ら正す」という形を貫いていくと徳川幕府の統治権の根拠が否定されて大政奉還に帰結してしまいますし、その帰結が予定されれば『靖献遺言』で「こりかたまった」男たちが、その方向へと命を捨てて動き出すことになってしまって当然になるのです。

 『靖献遺言』と『保建大記』が維新の志士の「聖書(バイブル)」になり「歴史の過ちの結果生じた幕府」を倒して正統なる「天皇の親政」を樹立するという「朱子学的革命」への明確な方向づけに収斂したのが、日本の歴史を中国の歴史的尺度で検証するという作業の帰結となってしまったのです。

 

 『現人神の創作者たち』という本は元となった文献の引用が多く非常に難解な書物です、従って私の理解も中途半端に終わっていて分かり易くお伝えすることが出来なかったかもしれません。しかし千五百年の長きにわたってお手本とし畏敬してきた大国が崩壊し、なおかつ天皇制の権威の正統制の淵源でもあった中国が「畜類の国」に成り下がり蛮国イギリスに敗れさった衝撃を、中国の価値観を援用して納得しようとした試みは現在のわが国にも通じるものがあります。

 

 コロナ禍後の世界はこれまでの延長線上ではなくまったく新しい価値観の創出を必要としています。その試練にわれわれは耐えることができるのでしょうか。

 

 

 

 

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