2023年3月6日月曜日

キケロの老年論

  キケロはローマ時代の政治家・哲学者です。彼の老年論に学んでみましょう。

 

 ※ 自力で善く幸せに生きる方策を欠いている人たちには、どんな年齢でも辛いものだ。しかしそれぞれの時期に自分に備わっている善いものを見つけようと努める人にとっては、自然の定めがもたらすものになにひとつ悪いものはない。そのようなものの筆頭が老年なのに、おまけに誰でも長生きはしたいくせに、老年がいったん手に入ると文句をいう。愚か者の無定見と偏見はこんなものだ。

 ※ 要するによき賜物は、持っているうちは有効に使い、なくなってしまったら悲しまないことだ。さもないと青年は幼年時代を、壮年は青年時代をと、いつも惜しんでばかりいることになる。人生行路は定まっているのだ。自然の道は一つで、しかも一方通行だ。そして、人生の各々の時期には、それにふさわしいものが備わっているんだよ。だから少年期の虚弱さ、青年期の元気よさ、壮年期の重々しさ、老年期のまろやかさには、なにか自然なものがある。それをそれぞれの時代に享受すべきなのだ。

 ※ 慈愛とは、世と自分と他者とをありのままに受容し、包み、いつくしむことである。損得や勝敗を離れ、慈愛がおのずから滲み出るような成熟した人格が、あるべき老年像として通用するようになればよいのだが、戦争も経済的競争も老人のような非戦闘員を無用化してしまう。戦争と競争の時代はとにかく老人を軽んじるものだ。しかし、この世にとって本当に必要かつ正当なことが何であるかは、訓練と経験と人間知に富んだ老人男女の声を無視して判断できることではないだろう。

 人類は長いあいだ「不老長寿」を求めてきました。それがやっと手に入って「人生百年時代」を迎えたというのに一向に喜ぶ気配がありません。いやむしろ長生きが辛いことのようにさえ思って「アンチエイジング」に身をやつす毎日、若い連中も年寄りを「邪魔もの」扱いする始末です、お金と手がかかると言って。

 

 ※ つらつら思いみるに、老年が惨めにみえるには四つの理由がある。第一は年をとるとあらゆる職から退かなくてはならないこと、第二は体が弱ること、第三は快楽がほとんどすべて奪われること、第四は死が遠くないことだ。

 ※ 老人に対する第三の非難は、老年には楽しみがないというものだ。しかし老年が青春時代の最大の悪徳を取り去ってくれるとは、なんと有り難い恵みではないか。(略)「自然が人間に与えた最大の災禍は肉体的欲望だ。この欲望の満足を求めて、人間の情熱は抑えようもなく駆り立てられる。(略)快楽を理性や知恵で遠ざけることはなかなかむずかしいことだ。だとすれば、よからぬことへの興味が失せてくる老年こそ、実に有り難いものではないか

 ※ しかしまあなんと素晴らしいことではないか。老人は欲情や野心や敵意など、もろもろの欲望に仕えることを終えて、自分を取り戻し、世に言うごとく自分らしく生きるようになるのだ。まして研究や学問というような味わい深いものを持っていれば、閑な老年以上に楽しいものはない。(略)いかなる宴会や遊興や放蕩の快楽だってこういう楽しみ(知性を要する仕事)とは比べものにならんのだ。しかもこれらは学問への熱心だ。この熱意は、知的で教育のある人の場合、年齢とともに増していくんだよ。(略)毎日多くのことを学び加えながら年をとっていくという、こういう心の快楽より大きな快楽はあり得ない。これは本当のことだよ。

 ※ たしかに貧乏のどん底にいれば、たとえ賢者でも老年は過ごし易いものではない。しかしどんなに金があっても本人が愚かでは、老年が重荷でないとは言えるまい。(略)老年に対抗する最良の武器は、もろもろのよき能力を磨き行使しておくことなんだ。そういう能力は、一生通じて養われると、長く充実した人生の終わりに驚くべき実を結ぶものだ。これは生涯の最後の時でさえ人を見捨てないんだからねえ。とても大切なことだよ、これは。そればかりではない。人生をよく生きてきたという自覚や多くのよき行ないの思い出は大変快いものなのだ。

 むかし誰だったかある女性が石原慎太郎を表して「男根主義」と呼ばわったことがありました。彼の『太陽の季節』からの連想だったかもしれませんが、その真偽はさておいて多くの男性に同種の傾向があることは否めません。しかし所詮は「もろもろの欲望に仕えること」に他ならないのであって、それら他者との関係や摩擦から解放される老年はキケロの言う通り「実りの季節」に転換できる可能性に満ちているのです。

 

 ※ 老人はとかく自分たちが馬鹿にされ、見下げられ、からかわれていると僻むものだ。殊に弱い体には、ちょっとした侮辱でもこたえるんだよ。でもね、こういう欠点はみな、良い習慣と教養によって和らげることができるんだよ。

 ※ 権威こそが老年の冠だ。

 ※ 言葉に出して自己を弁護しなくてはならないような老年は惨めだということだよ。白髪や皺がそれだけで権威を作り出すわけではない。青年期、壮年期を立派に生きた者が、権威という最後の実りを手に入れるのだ。

 最近ちまたでよく見かける年寄りの行政の窓口担当者やショップの店員さんへの理不尽な「暴発」を見るにつけ、彼らの青年期、壮年期の過ごし方に思いを致さずにはおられません。

 

 ※ 賢明な人ほど平静な心をもって死に、愚かな人ほど心をかき乱されて死ぬとは、いったいどういうことだろう。よりよく、またより鋭く認識する霊魂には、死んだらよりよいものへ向かって出発することがわかるけど、視力が鈍い霊魂にはそれがわからないんだ。

 ※ 老人は短い人生の残りをむさぼるべきでもないし、理由なしに捨てるべきでもない

 

 キケロは学問の積み重ね――毎日多くのことを学び加えながら年を取っていく快楽を老年期最大の快楽と推奨していますが、これは学問に限らない、芸術でもガーデニングでも肉体練磨でも構わないのです。百年の残りの人生を賭けても終わりそうにない遠大な目標に向かって、楽しみながら毎日を積み重ねていくことを言っているのです。

 

 キケロの老年論の書名は『老年の豊かさについて』(法蔵館刊、八木誠一・綾子訳)となっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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