2024年3月4日月曜日

ことばのちから

  わが国は、古来自然災害の大変多い国であり、先人たちは自然の恵みに日々感謝するとともに畏れも抱き、自然の中に神を感じて祭祀を行い、畏怖の心をもってつつましく生活を営んできた民族であります。

 これは石清水八幡宮宮司、田中恆清さんの能登半島地震で罹災された方々への慰謝の言葉の一部です(2024.2.29京都新聞)。この小さな記事を読んだとき、地震発生以来心の中で蟠っていたもやもやが一掃された気がしました。

 阪神淡路大震災、東日本大震災と福島原発事故、熊本地震と相次いだ中で、われわれは表面的な復旧・復興は行ないましたが根本的な思想の転換や経済・社会施策の方向転換には手をつけずに済ましてきました。福島原発事故直後原発の見直しを宣言し再生可能エネルギーへの方向転換を打ち出しましたが岸田首相はシレーッと「原発主電源化」に後戻りしてしまいました。能登半島地震にしても能登地方では近年何度も震度6や7近い地震が起こっていたにもかかわらず地震学者は大地震の危険性を警告しませんでしたし、大体日本海側の大地震予測はないがしろにされてきました。そして石川県知事はそんな状況であるにもかかわらず、地元民の不安の訴えがあったにもかかわらず、真摯に向き合わず地震への備えを怠ってきました。こうした為政者や学者の姿勢には、自然に対する傲慢さ、分からないこと(日本海側の地震調査の困難さ)に対するひたむきな学問的追求のなさ、怠慢さが顕著にうかがえます。

 仏教伝来までのわが国では自然神に対する信仰が主でした。今でも私たちは巨石や巨樹の前に立つと言葉にできない「畏れ」や「怖さ」が湧いてくるのを実感します。学問や科学の進歩はわれわれの生活を飛躍的に便利にし物質的豊かさをもたらしてくれました。しかしそれは科学や学問の「手の付けやすいところ」「得意な分野」で成し遂げられたことです。不得意な分野やまだ分かっていない領域は手づかずのままです。冷静に判断するなら自然界では「分かっていないこと」の方が断然多いのです。にもかかわらずわれわれは「自然を管理できる」と勘違いしてきました。だから「想定外」の災害を繰り返しているのです。

 自然の恵みに日々感謝する(略)畏怖の心をもってつつましく生活を営んできた、という田中宮司のことばにはわれわれに反省を促す強い「ちから」があります。

 

 「挫滅」。ざめつ、と読みます。この言葉は今度の能登半島地震で初めて知りました、災害状況の中間とりまとめの中に出ていたのです。挫のあとにつづく「滅」の字のなんと残酷な響きでしょうか。

 医療・ケア用語で「外部からの衝撃や圧迫によって、内部の組織が破壊されること」です。7万8千棟弱の住宅損壊があり241人の方が亡くなっていて92人の方が「圧死」されています。圧し潰されて骨が崩れて内臓が破壊される。なんという苦しさであったでしょうか、即死でなく徐々に痛み苦しみながら死んで行かれた被害者の状態を鮮やかに映している「挫滅」という文字(言葉)に衝撃を受けました。心が痛みました。「文字のちから」を知らされました。

 

 異常事態でも人々をつなぐ「きずな」を支えるのは言葉であり、言葉が「もうひとつのシェルター」になっている。

 ウクライナの詩人オスタップ・スリヴィンスキーの『戦争語彙集』(ロバート・キャンベル訳岩波書店)のなかにある言葉です。毎日新聞の書評欄(2024.1.20)に沼野充義さんが書いているなかにあった引用です。戦争下の市民に取材して普段使っている言葉が戦争によってどのように変化したかという視点で市民の体験がつづられています。例えば、「林檎」はかって恋人と聞いていた庭先に落ちる音とミサイルが落ちる音が重なる、以前見上げていた「星」は今は爆撃で窓が砕け散るのを防ぐテープを見て思い浮かべる言葉になった、という風です。

 まだこの本は読んでいないので上の引用がどのような文脈で語られているのかは分かっていませんが心に刺さったのです。「シェルター」とは、人を保護する施設や場所のことで、危険や攻撃から保護するだけでなく暑熱や風雨、駆け込み寺、難民収容所なども含まれます。しかしわれわれが今イメージするのは原爆から避難するシュルターです。ウクライナを侵攻するプーチンの脅しで原爆の脅威が緊迫感を増してきたためシェルターの必要性が高まっています。しかし物理的生理的脅威だけでなく現代では心理的な痛み苦しみも避けがたい状況になっています。そんなとき何気ない他人の言葉で「救われる」ことが少なくありません。絶望的な逃げ場のない状況に追い込まれることの少なくない現代において「ぬくもり」のある言葉は「シェルター」そのものです。

 

 齢のせいか最近言葉に神経質になっています。テレビやインターネットの言葉は暴力的に感じますし新聞や本の活字に敏感に反応します。そんななか京都新聞に連載されている冷泉貴実子さんの「四季の言の葉」に出会いました。わが国の古典に取材した「和語――やまとことば」(単語と表現)を、一つの季語―季節にまつわる言葉を取り出して100字ほどの短い文章で説明してくれるのですがこれが「豊潤」なのです。知らない言葉がいくつもありますし、その表現が多彩なのです。日本語がこれほど繊細、豊潤であったのかと驚かされます。

 一方で全盛のSNSは50字足らずの短文が主流です。おまけにテンプレート――標準化された文例――を駆使しますから独自の表現はむしろ嫌われます。今や「マルハラ(文中に読点“。”が書いてあると叱られているような圧迫感を覚えると“。”が忌避されているのです)」などという理不尽な傾向さえ起こっています。こんなことがつづけば「豊富な日本語」は絶滅するかもしれません。「ことばのちから」は学習と訓練で養成されます。しかしもっと大事なことは「伝えたいこと」を持つことです。

 

 今最もおそれるべきは「伝えること」を諦めることです。

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