2024年6月24日月曜日

政治家、政治屋、自己責任

  自民党裏金事件の二階派元会計責任者の初公判で「パーティー券の売り上げが多額だと……」という発言がありました。その他についてはテレビなどで周知でしょうから省きますが私がどうしても捨てておけないのは『売上げ』という「語」なのです。ことは「政治」に関わる問題です、そこに「売上げ」という言葉は余りにふさわしくないと感じるのです。「売上げ」は商売の世界の言葉です。その言葉を何のためらいもなく政治組織の会計責任者が使うのですから日常的で身についているのでしょう、しかも「裁判」という場で。彼は自分の犯罪を糾されているのですから言葉遣いには細心の注意を払っているはずです。その場で平然と使うのですからこの言葉は彼の普通の言葉なのです、ということは彼にとって「政治」は「商売」だったのでしょう。彼の所属していた政治組織は「政治家」のではなく「政治屋」たちの組織と彼は感じていたのです。政治信条であったり政治施策であったり、よしんば政治権力であったとしてもそれは「政治家」の仕事です。しかし彼の所属していた組織で彼が担当していたのは「政治屋商売」の「売上げ」だったのです。

 

 裏金問題に関してもうひとつ放っておけない問題があります。それは「パーティー券を買ったことが表沙汰になっては困る」という支援者側の考え方――論理です。こうした寄付する側とされる側の事情が「20万円」か「5万円」かという線引きにつながっているのです。

 政治にはどこまで行っても「保守」と「リベラル(革新)」の対立はあります。既得権を守ろうとする側――現在の政治体制の方が都合がいいと考える立場とそれに反対する立場――現体制では損をしている側、恵まれない立場に置かれている人たちの対立です。そのどちらに属していても「自分の政治的立場」を明かにすることに『恥じる』という感覚は私にはありません。多分多くの人はそうなのではないでしょうか。

 もし「都合が悪い」という人がいたらその人は寄付することで何か「いいこと」があるからでしょう。普通のやり方では手に入らない「いいこと」を寄付で「無理やり」、「ズルいやり方」で、「法を曲げて」手に入れられるから寄付した、だから「名前」が表に出ては困るのです。

 もうひとつ考えられるのは寄付する政治家(?)の評判が良くないのでそんな人に自分が寄付したことが知れたら世間の人に「恥ずかしい」「馬鹿にされる」、だから表沙汰にしたくないという場合です。これはあり得ることです。世の中は「しがらみ」だらけですからよんどころない「つき合い」で寄付を頼まれることは無いことではありません。縁も所縁も、好きでも嫌いでもない、いやむしろ嫌いだし考え方も相当違う、そんな人に寄付した場合は絶対に名前を出したくないでしょうね。何なら領収書も欲しくない。そんな例もあるでしょうが、しかしそんなケースはめったにないものです。

 としたら寄付して名前を出したくないのは、違法に利益誘導を図るか寄付する政治家の評判が悪いかのどちらかです。パーティー券の購入者名を明かにしたくない政治屋さんは、自分の評判が悪いことを自覚しているか大口の寄付者(社)に利益誘導しようとしているのです。

 一般市民はパーティー券問題をこんな風に考えていますが政治屋さんはどうなのでしょうか。

 

 政治資金ではないのですが以前から違和感を覚えていることばがあります、「仲間」ということばです。政治家が政治信条(党)を同じくする人を呼ぶとき、何年か前から「仲間」と呼ぶようになったのです。それ以前は「同志」だったものがいつの間にか「仲間」に変わったのです。そしてそこには単なる「ことば遣い」の問題ではなく根本的な変更があるように感じているのです。

 自由民権運動を経てわが国に政党政治が勃興したころ「政党人」は政治家たらんとして矜持と熱情をもって活動しました。それは戦後も同様で、敗戦の壊滅状態を一日も早く復興せんとして保守と革新がしのぎを削ったのです。そこには「同志的結合」があり「政治的理想」を研鑽し合う厳しさがありました。彼らが「仲間」と呼び合うことはありませんでした。

 同志と仲間について言辞的に詳細を説くことはしませんが、今の政治家は「同志」と呼ぶことに「気恥ずかしさ」を感じているのではないでしょうか。もうそんな時代ではない、AIを活用し「国民福祉」の向上をデータにもとづいて実現可能性を高める、保革を超越した政治課題への取り組みである、などと。政治も経済も芸術も同じ「仲間」と創り上げていくものである、そんな政治意識を抱いているのではないでしょうか。「仲間意識」と「同志的結合」、ここには根本的な「政治意識」の違いがあるように思うのですがどうでしょうか。

 

 現在の政治家が『虎と翼』の時代にいたらどんな政治活動をするでしょうか。わが国で女性で初めて法曹界に生きた三淵嘉子をモデルにしたNHK朝ドラは、今戦後の家庭裁判所設立時代の彼女たちの苦難を描いています。終戦時町に溢れていた「戦災孤児」たちをどのように救済するか。ひょっとしたら今の政治家たちは「自己責任」を彼らに圧しつけるかもしれません。ひとり親家庭で何件も非正規雇用のアルバイトを掛けもって、それでも月収15万円で子ども食堂やフードバンクの支援でなんとか生きついでいる世帯が何十万世帯もあるのに社会保障費はOECD38ヶ国中17位でGDP比23.1%に止まっています。子育て支援は不十分で大学は返済型の奨学金が大半で国として「子どもの能力」を生かし切れていません。これでグローバル競争に勝てるとはとても思えないのに政治は企業優先志向を改めようとしません。

 

 「パーティー券の販売」という言葉を平気で口にする「政治屋」さんたち。こんな政治でわが国が良くなるはずがありません。

 

2024年6月17日月曜日

想滴々(24.6)

  齢をとったせいか最近世の中の動きを見ていて、未熟だなぁと思うことがよくあります。最近で言えばG7での「ロシア資産運用合意――ウクライナへ7兆円超」というのには唖然としました。ロシアの凍結資産の収益をウクライナ支援に流用するというのです。本人たちは真剣に討議している積りでしょうが、これ、紛れもなく「泥棒」でしょう。そもそも「凍結」自体どんな法的根拠に基づいているのか疑問のあるところなのに、元本には手を付けないとはいえ収益部分を勝手に奪ってそれをあろうことかロシアの当面の敵であるウクライナの「軍事支援」に宛てるというのですから正気の沙汰とは思えません。マネーロンダリング等に関する国際機関である「FATF(金融活動作業部会)」の「マネーロンダリング対策及びテロ資金対策に関する国際基準(FATF勧告)」あたりを「言い訳」にしているのでしょうが、いずれはこの戦争も終戦する――しなければならないのですから、それを見据えればこの措置が終戦への道を今以上に困難なものにするかもしれない可能性に「G7の賢人たち」は思い至らないのでしょうか。未熟の「極み」です。

 

 「政治資金規正法」に関するこのところの動きも阿呆らしくて話にもなりません。そもそも政党助成金は政党の政治活動の健全な発達を促すために、民主政治の健全な発展を実現する為に設立されたもので、一部の経済団体や企業からの莫大な政治資金の提供によって利益誘導が行われ「健全さ」が害われることを防ぐ目的で設立されたものです。勿論企業献金の禁止は大きな目標でしたから315億円という厖大な税金を計上しているのです。にもかかわら「パーティー券」という打ち出の小槌で企業献金を集金しあまつさえ収支を報告しなくてもいいという抜け穴を作って「私」し、ひょっとしたらそのうちの何割かは政治資金ではなしに「私的な収入」=「所得」にして「税務申告」を誤魔化していたかも知れないような「体制」を築いて「党勢拡大」や「選挙資金」に使われていたのです、「政治には金がかかる」という論法で。それを改めよう、政治のおカネの収支を透明化して公正な使われ方がされるように「改正」しようという試みであるにもかかわらず、「パーティー券」は5万円以下なら購入者の名前は公表しなくてもいい、政策活動費の明細は10年後に公表する、しかし一部の領収書は「黒塗り」もあり、という「改正」法を国会で定めようというのです。20万円以下だったものを5万円にしたところで10人を[2人×5]にすれば同じことになるのは小学校の子どもでも分かることで、10年後同じ顔ぶれが議員である可能性はかなり低いし、違反しても罰せられる法的根拠は無いし、黒塗りの領収書の判断基準は明かになっていないし、要するに「改正」の中身が「改正」を実現する可能性は極めてゼロに近いのです。それを当人たちは「これで政治資金の透明化公正化」は達成できるのですと、真面目な顔で言っているのですから呆れてしまいます。これを「政治ごっこ」と言わずして他に表現方法があるでしょうか。いい大人が、学歴も社会的地位も十分な輩が「これが政治というものです」と何ら恥じることもなく白日の下に晒しているのですから情けない限りです。未熟の「極み」です。

 

 東京都庁にプロジェクションマッピングをほどこして「東京の夜の観光」の目玉にしようと小池さんが本気で取り組んでいます。2023年からスタートして今年の予算は9億5千万円だそうです。見たこともありませんから批判は差し控えるべきでしょうが「経済効果18億円」という小池さんの発表をそのまま信じることはできません。一極集中で疲弊した地方は「地方創生」のために知恵とお金を絞りだして悪戦苦闘しているのですがいかんせん、お金=財政に余裕がありません。そんな地方から見たら「東京さん」は「お金持ち」なんだなぁとため息をついていることでしょう。大阪が大阪城でプロジェクションマッピングを初めて評判を得たから東京も負けてはいられない、などという幼稚な発想を小池さんがしたとは思いませんが、もしそうなら何とも、未熟の「極み」と言わざるをえません。

 

 イギリスの「不法移民(入国者)をルワンダに強制移送」法案可決の報道には驚かされました。フランスからドーバー海峡をボートで渡るなどして不法入国する人たちへの対応が財政圧迫していることからアフリカ東部のルワンダへ資金援助と引き換えに強制移送する計画で7月の総選挙を見すえた劣勢を伝えられているスナク保守党政権の目玉公約らしいというのです。何とも身勝手な政策です。

 そもそも今の「難民問題」は欧米先進国の植民地主義の「負の遺産」そのものではありませんか。産業革命のもたらした圧倒的な「生産力」と「軍事力」を暴力的に利用して後進緒国を植民地化し、資源と労働力を搾取の限りを尽くして繁栄を謳歌し、第二次世界大戦後の「民族自決」を建て前としてほとんど「無責任」に「放置」した国々が、搾取尽くされて余力がなく貧困からの脱却ができないままに「難民化」したのが現状の「難民問題」です。暴力の限りを尽くしたのが産業革命発祥の地「大英帝国」であり植民地主義の最大の責任国はイギリスであることは世界の公認するところです。「アヘン戦争」が貿易収支の赤字を解消するために麻薬のアヘンを不法に中国で流通させ巨額の利益を上げたことに怒った中国が反抗した結果であったと知ったときの驚きは、学校で習った「世界史」がいかに先進国に都合よく改ざんされたものであるかを知る入口になりました。

 世界がイギリスの「難民ルワンダ強制移送」という暴挙を完全にスルーしている現状は、未熟の「極み」です。ロシアのウクライナ侵攻、イスラエルのガザ(パレスチナ)強奪という世界の耳目を集めるどさくさの混乱のなかでイギリスの野蛮な振る舞いを黙って許すことは、世界の未熟の「極み」と言わねばならないでしょう。

 

 アメリカの「ダブルヘイター」――トランプは嫌だけどバイデンも駄目だ、どっちも選びたくない。80才前後の高齢者しか大統領候補のいないアメリカの政治状況は、民主主義の未熟の「極み」です。そのアメリカに追従するしかない今のわが国も未熟の「極み」以外の何ものでもありません。

 

 自由と民主主義の勢力と強権国家の対立という今の世界情勢から脱却するには「賢明さ」が求められますが現状は最悪です。日本こそ現状打破の主導者たり得ると思うのですが今の政治の未熟さではその望みは叶えられそうにありません。

  

 

 

 

2024年6月10日月曜日

やなせたかしの偉大さ

  先日同窓会(大学のクラブ創立70周年記念)がありました。宴もたけなわになってほろ酔いの同期4、5人屯して発起人を務めてくれたK氏のヴァイタリティと若さをさかなに盛り上がりあれやこれやがあって、一番は孫の小さいことやないのという私の一言に、それはあるなぁとK氏。「こないだまではこの子らが学校行くまではと思っていたけどそれがもう来年やろ。最近は成人するまではと欲が出てきてなぁ」。

 

 私同様晩年に初孫を授かったK氏は双子ちゃんということもあって娘さんの育児応援のために淀屋橋のタワーマンション最上階をスッパリと投げうって娘さん夫婦の住む枚方に転居した孫大事の好々爺です。新聞社の営業で辣腕を振るった企業戦士の彼のギラギラと脂ぎった凄みある目つきが穏やかな澄んだ眼差しに変わったのは必ずしも齢のせいばかりではなくお孫さんの力があずかって大きいにちがいありません。

 孫は可愛いと言いますが80才も近くなって授かった幼子はただ愛しいだけでなく「生命の不思議」をまざまざと覚らせてくれるのです。いのちを粗末にしては勿体ない、大事にしようとしみじみと教えてくれるのです。自分の身体とこれほど真剣に向き合ったことはこれまでありませんでした。自然の移ろいをこれ程敏感に感じたことはありませんでした。妻や娘たちの心にこれほど思いやることもありませんでした。みな孫のお陰です。彼の成長力が私の命を活きづかせてくれるのです。

 

 そんな彼が2才になるちょっと前からアンパンマンを見るとたちまちハマってしまいました。登場するキャラクターの名前も次々覚えてなぜか「バイキンマン」が一番のお気に入りに。4月の誕生日にぬいぐるみをプレゼントしてもらうとたちまち「ごっこ」をはじめました。大好物のおせんべいをあげたりジュースを飲ませてあげたり抱っこして一緒に寝たりと今まで見せたことのない遊びをしたのです。バイキンマンを「擬人化」「同体化」して世話をやくのです。自分が親やじいちゃんばあちゃんにしてもらったようにバイキンマンにしてやるのです。これまで自分は「してもらう存在」として「依存」してきた「弱者」から「してあげる存在」としてバイキンマンの「上位」に位置するようになったのでしょうか。それが如実に表れたのが母親との関係です。未分化で同体だった母親との関係が「別存在」と意識したのか、そうなると自分を最も保護してくれる存在ということに気づいて依存が自覚的に行なわれるようになったのです。後追い、ひとりぼっちにされると「泣く」、私たちがお迎えに行って面倒を見ていて母親が帰ってくると「はしゃぎ」をあらわにするのです、こんなことはこれまでまったくなかったことです。

 テレビで見ていた「触れられない」「非存在」が突然ぬいぐるみになって自分の手の中にある。彼が経験したはじめての強烈な「VR(バーチャルリアリティ)」だったでしょう。彼の世界観が一瞬にして大変革したのです。母親の存在が一変したのも多分この経験が影響しているのでしょう。2才という時期は丁度良かったと思います。保育園に通うようになって「プログラム」にそって教育を受け、心身の成長を意図的に図られて他者との関係に気づかされて、その時期にぬいぐるみを与えられて、スグに受け入れができて「ごっこ」遊びができたのです。2才になってからの目ざましい成長がさらに促進されることでしょう。

 ところがここで一大事が起ってしまいました。おじいちゃんの不用意な振る舞い――バイキンマンとおじいちゃんが「お話し」したのです。ぼくもまだお話しできないのにおじいちゃんは「バイキンマン、Hちゃん大好きだって」などとお話ししているのです。僕がバイキンマンをポイすると「痛いね、かわいそうかわいそう」とバイキンマンをだっこしてあげるのです。

 エライことをしてしまいました。どう始末をつければいいのか、おじいちゃんは困り果てています。

 

 もうひとつ予期せぬ問題も起こりました。アンパンマンシールで喜んで遊んでいるので安心していたら、剥がせないのでかんしゃくを起こして怒り出したのです。彼にとっては貼っておしまいではなかったのです、貼って剥がして又貼る、それが彼の「シール遊び」なのです。先日もお迎えにいって家に帰ると早速スケッチブックを持ち出して来てページを開いて剥がし始めました。紙に貼ったものですから容易に剝がれません。私もやってみましたがなかなか手ごわい。なんども繰り返しているうちに何とか一枚剥がれました。喜ぶこと喜ぶこと、又一枚剥がしてやると嬉しそうにしています。剥がしたものは又貼っても剥がしやすいので、貼って剥がして又貼って。やっと自分の思い通りの「シール遊び」ができたのです。根気よく遊んでいる彼を置いて休息していると「おじいちゃん!」とお呼びがかかりました。はじめてです、おじいちゃんと呼ばれたのは。ジイチャン、バアチャンと呼んでいたのがはっきりと「おじいちゃん」と呼んだのです。シール剥がしをしてくれた私は一躍「特別な存在」になったようです。

 帰って思案しました。紙だから剥がしにくい、アクリル板なら少しはましだろう。剥がしやすいシールもあるのではないか、と。おもちゃ屋に行くとなんと「シールブック」があって、剥がしやすいシールとスベスベしたコート紙がセットになっているのです。子どもはみな貼るだけでなく、貼って剥がして又貼って、というのが普通の遊び方なのでしょう。そこは本職です、キチンと対応したおもちゃが開発済みだったのです。

 でもまだ問題は残っています。ブックはキャラクターの絵が描いてあってそこへ貼るように仕向けているのですが幼い2才は好き勝手に貼ってしまいます。別に問題はありませんから見ているとシールのないキャラクターの絵を剥がそうとするのです。「これがシール、これは絵だから剥がせないよ」と教えても納得いかないのでしょう執拗に剥がしに挑戦しつづけます。とうとうかんしゃくを起こしました。なだめてなだめて何とかおさまりを付けましたが、はてさてどう決着をつけたものか。

 

 2才になって自意識が芽ばえて、おしゃべりも達者になって歩行も上達して活動範囲が広がって、興味が多岐に亘るようになって……。これからが子育ての本番です。親は大変です。私たちも応援していきます。そして彼の成長を楽しみに、まずは学校へ行くまで。そこまで健康を維持できたら次は成人ですがそうなると私は丁度百才です。気の遠くなるような話ですがまんざら可能性ゼロではありません。励んでみる価値はあります。

 

 それにしてもやなせたかしは偉大です。

 

 

2024年6月3日月曜日

町の本屋さん

  最近町の本屋さんを応援しようという動きがあちこちで起こっています。直木賞作家今村翔吾さんの「今村翔吾のまつり旅」と銘打って全国の書店を応援する活動はマスコミが注目していますし経産省も地域の書店に対する新たな支援を検討するPT(プロジュクトチーム)を立ち上げました。また斎藤経産大臣が幹事長を務める「街の本屋さんを元気にして、日本の文化を守る議員連盟(書店議連)」もあります。こうした動きの多くは、地域の「知の宝庫」として文化の発信と普及に果たしてきた役割、を街の本屋さんの存続理由としています。「ウェブ、図書館、本屋の三つが持ち味を生かしながら共存するのがベスト」と斎藤さんも言っています。こうした町の本屋さんの役割や存在理由は今でも有効なのでしょうか。

 

 書店の閉店が相次ぐ背景には、活字離れやインターネット通販、電子書籍の広がりのほか地方の人口と賑わいの減少などがありますが、書店の大きな収益源であった雑誌の衰退も大きく影響しており、そもそも書店を取り巻く産業構造そのものに根本的な問題点が存在しているのではないでしょうか。書店は売り上げの8割を出版社や取次会社に払い粗利益は2割程度とされています。その上クレジットカードや電子決済の利用が増え店側の手数料負担が重くなっていますし、近年の光熱費や人件費の高騰も経営悪化に追い打ちをかけています。更に本の仕入れがままならない事情もあります。日本では出版社から本を仕入れて卸す仲介業者「取次会社」が介在していて書店の規模によって配本数を決める「ランク配本」の仕組みがあり中小の書店は人気の本を望むように取り扱うことができなくなっています。また図書館が本を書店から購入するとき、ラベル張りやコーティングなどの装備費用が書店負担になっていたりその分の値引きを求める自治体が一定数あるのも事実です。ネット書店による送料無料化や過剰なポイント付与など不公正な競争環境の深刻化も書店経営を圧迫する要因です。

 

 書店を支援すると言いながら、書店は文化の担い手だと言いながら、欧州などで実施されている出版物に対する軽減税率の適用や非課税にすることは政治は考えていません。韓国のように店舗でイベントを開催する書店に助成する制度も未整備です。図書館の書籍購入を地元書店にするよう義務付ければそれだけでも町の本屋さんの売上げは安定するでしょうが、昨今の財政事情では図書館の予算は減る一方ですからそれも先細りしてしまいそうです。「図書館は住民に必要な情報を提供し知る権利を保障する場所で、お金をかける必要があるものだと理解してもらいたい。図書館に活気を取り戻すために読書文化そのものを守らなくてはならない(日本図書館協会岡部幸祐事務局長)」という理念は財政悪化の前に二次三次の予算項目に追いやられています。学校の教科書需要は町の本屋さんの大きな収入源だったはずですが今はどうなっているのでしょうか。

 

 こうした事情を踏まえたうえで「町の本屋さん」をどのように支援すればいいのでしょうか。掛け声だけは勇ましいのですがマスコミで正論を言っているコメンタイターや知識人自身がネット書店で本を購入しているのが現状でしょう。そもそも私たちのイメージしている「町の本屋さん」というのはどんな本屋さんなのでしょう。

 私の子ども時分――今から70年ほど前、「知の源泉」はほとんど「学校」が独占していました。先生(教師)は尊敬の対象でしたし町の名士でもありました。知識は学校と本から与えれられ娯楽の一番は映画でした。紙芝居は子どものエンタメとしてまだ残っていましたし、「貸本屋」が隆盛でマンガは貸本屋が供給源でした。中学生になると大衆娯楽小説を読むようになり貸本屋で借りて山手樹一郎や五味康祐、柴田錬三郎、黒岩重吾、梶山季之など貪るように読んだものです。講談全集は大人の会話に参加するための基礎知識でした。町の本屋さんは小学館の「学年雑誌」を毎月配本してもらうくらいで盆と正月に親と一緒に行って図鑑や少年少女世界文学全集(の1冊か2冊)を買ってもらうのが楽しみでした。親が戦前購入していた日本文学全集や世界文学全集の何冊かを読んだ覚えがあります。それより私が楽しんでいたのはクラシックのレコードでビクターやグラムフォンのSP盤を手回しの蓄音機で聴いていました。父が道楽で電蓄を持っていたので時々父にかけてもらうのが嬉しかった記憶があります。図書館は学校にしかなく(多分どこかに公立図書館はあったのでしょうが今ほど身近な存在ではありませんでした)蔵書数は多くありませんでしたが小説のほとんどは学校から借りて読んでいました。相対的に(自分の小遣いとの比較から)本は高いものだったと記憶しています。

 

 それから10年ほどして大学時代から社会人時代が町の本屋さんにもっともお世話になった時期でした。週に2、3回は本屋に通って専門書や文学書を渉猟しました。目当ての本だけでなくそこで出合った本に面白いものがあって本屋に行くのがひとつの娯楽でした。安月給でしたから図書費に余裕がなく高い専門書は会社の図書室に購入してもらっていました(良い時代でした)。

 

 それから30年、時代は一変しました。インターネットが普及してPCとスマホの全盛期が到来、町の本屋さんを取り巻く環境は厳しくなりました。娯楽の多様化が進み「読書(紙の本)」の占める領域は激減しました。電子書籍という競争相手も出現しLINEやU-TUBEも読書の領域を侵犯するアイテムです。大型書店の出現は町の本屋さの競争相手と呼ぶにはあまりにデカすぎます。昔の町の本屋さんがフラッと入る暇つぶしと教養と娯楽の場所だったとしたら大型書店は豊富な本揃えとタダ読み勝手放題、コーヒールーム併設で買った本をゆっくり楽しむ空間になっていますから本好きにとってはテーマパークのようなものです。

 

 私が贔屓にしている町の本屋さんは文具も扱っていて、子どもコーナーは子どもの本と文房具がワンストップで買える設定になっていて休日親子連れでやってきて、親が自分の本をあさっている間子どもは自分の本や文具を決めて親を呼んで買ってもらう、そんな情景をよく見ます。童話の読み聞かせも月に何回かあって盛況のようです。高校の前にあるので受験用図書は充実しています。文庫本主体の小説コーナーとは別に新刊小説も置いてありますが趣味、実益の雑誌が豊富で大人の多くはこのコーナーに集まっています。ふたりの店員さんと2、3人のアルバイトさんがローテーションで店を切り回しています。もう20年近く書籍と文具はここで購入していますので店員さんとは顔なじみで結構無理も聞いてもらっています。本の取り寄せに十日ほどかかりることもありますが別に不満はありません。

 

 支援のかたち――どんな町の本屋さんを残そうとしているのか、それは本屋さんと街の住人が一緒になって作り上げていくもののように思います。お役所仕事のPTや書店議連の政治家の圧しつけの支援策では新しい「町の本屋さん」は生れてこないと、確信をもって言えます。政治や行政は潤沢な予算を用意するだけで十分ですしそこまでに止めておいてほしい願っています。