トランプ元大統領暗殺未遂事件のテレビを見た時「何と悪運の強い!」というのが偽らざる印象でした。そして秀吉を思い浮かべました。丁度山本兼一の『利休にたずねよ』を読んだばかりだったこともあったのですが「あくなき権力欲」と強運がどこか似通っているように感じたからです(秀吉に怒られるかな?)。
トランプ氏と秀吉にもうひとつ類似点を覚えるのは「分断」です。トランプ氏が敵を仕立てて煽り立て憎悪を植えつけて国民を分断するのは周知のところですが、秀吉が統一したばかりの日本国を分断したのも歴史に明らかです。信長の跡をついで戦国分裂のわが国を平定し統一したまでの秀吉は尊敬に値するものですが、持続可能な官僚組織を築いて統一を安定させる努力を怠り、上りつめた権力の座に惑溺し、権力に狂って朝鮮征伐という暴挙に打ち出たために関ヶ原合戦という悲惨な「分断」を招いたのです。
しかしトランプ氏と秀吉の間に根本的な相違点を感じるのはなぜでしょうか。時代の違いもありますがそれだけでは片づけられない何かがあります。それを見事に説き明かしてくれているのが鈴木大拙です。(以下は鈴木大拙著『東洋文化の根底にあるもの(195812.22)』からの引用です)
分割は知性の性格である。まず主と客をわける。われと人、自分と世界、心と物、天と地、など、すべて分けることが知性である。主客の分別をつけないと、知識が成立せぬ。知るものと知られるもの――この二元性からわれらの知識が出てきて、それから次から次へと発展してゆく。哲学も科学も、なにもかも、これから出る。個の世界、多の世界を見てゆくのが、西洋思想の特徴である。
それから、分けると、分けられたものの間に争いの起こるのは当然だ。すなわち、力の世界がそこから開けてくる。力とは勝負である。制するか制せられるかの、二元的世界である。(略)高い山が自分の面前に突っ立っている、そうすると、その山に登りたいとの気が動く。いろいろ工夫して、その絶頂をきわめる。そうすると、山を征服したという。(略)この征服欲が力、すなわち各種のインペリアリズム(侵略主義)の実現となる。自由の一面にはこの性格が見られる。
二元性を基底にもつ西洋思想には、もとより長所もあれば短所もある。個個特殊の具体的事物を一般化し、概念化し、抽象化する、これが長所である。これを日常生活の上に利用すると、すなわち工業化すると、大量生産となる。大量生産はすべてを普遍化し、平均にする。生産費が安くなり、そのうえ労力が省ける。しかし、この長所によって、その短所が補足せられるかは疑問である。すべてを普遍化し、標準化するということは、個個の特性を滅却し、創造力を統制する意味になる。(略)ある意味で創作力の発揮になるものが、きわめて小範囲を出ない。つまりは機械の奴隷となるにすぎない。(略)だれもかも、一定の型にはまりこんでしまう。どんぐりの背くらべは、古往今来、どこの国民の間にも見られるところだが、知性一般化の結果は、凡人のデモクラシーにほかならぬ。
西洋思想の根本を「分割」と捉えて批判しこれを超克しなければならないと考える思想家・哲学者・宗教家は少なくなく、西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」はその系譜ですし寺田寅彦も晩年近い考え方を述べていたように覚えています。しかし、戦後80年近くなってもいまだにそこへの接近はほとんどみられず、むしろその先鋭的傾向――新自由主義へ退歩した報いが現在のわが国です。戦争によって全部が破壊され、果たしてこれまでの「成長」と「競争」を目的とした社会運営が良かったのかという反省にたって、「国連」という国際協調のシステムを構築したのですが先進国の「強欲」がその流れを中断させ、今や逆行へ動き出そうとしているのです。
では東洋的思想とは?
東洋民族の間では、分割的知性、したがって、それから流出し、派生するすべての長所・短所が、見られぬ。知性が、欧米文化人のように、東洋では重んぜられなかったからである。われわれ東洋人の心理は、知性発生以前、論理万能主義以前の所に向かって、その根を下ろし、その幹を培うことになった。近ごろの学者たちは、これを嘲笑せんとする傾向があるが、それは知性の外面的光彩のまばゆきまでなるに幻惑せられた結果である。畢竟するに、眼光紙背に徹せぬからだ。
「光あれ」という心が、神の胸に動き出さんとする、その刹那に触れんとするのが、東洋民族の心理であるのに対して、欧米的心理は、「光」が現れてからの事象に没頭するのである。主客あるいは明暗未分以前の光景を、東洋最初の思想家である老子の言葉を借りると、「恍惚」である。荘子はこれを「混沌」といっている。(略)それで、まだ何とも名をつけず、何らの性格づけをしないとき、かりに、これをまだ動き始めぬ神の存在態とする。(略)またこれを「玄牝(げんひん)」ともいう。母の義、または、雌の義である。ゲーテの「永遠の女性」である。これを守って離れず惑わざるところに、「嬰児」に復帰し、「無極」に復帰し、「樸」に復帰するのである。ここに未だ発言せざる神がいる。神が何かをいうときが、(略)無象の象に名のつけられるところで、これから万物が生まれ出る母性が成立する。分割が行ぜられる。万物分割の知性を認識すること、これもとより大事だが、「その母を守る」ことを忘れてはならぬ。東洋民族の意識・心理・思想・文化の根源には、この母を守るということがある。母である、父ではない。これを忘れてはならぬ。
欧米人の考え方、感じ方の根本には父がある。キリスト教にもユダヤ教にも父はあるが、母はない。(略)彼らの神は父であっては母でない。父は力と律法と義とで統御する。母は無条件の愛でなにもかも包容する。善いとか悪いとかいわぬ。いずれも「併呑」して「改めず、あやうからず」である。西洋の愛には力の残りかすがある。東洋のは十方豁開(じっぽうかつかい)である。八方開きである。どこからでも入ってこられる。
今の混沌を一神教のせいにする傾向があります。一見理あるように感じますがそれではキリスト教ユダヤ教イスラム教を信じる民族・国家の国民を説得することはできません。禅宗の大和尚の言葉は凡人にはなかなか理解できませんが「母を守る」という教えは納得できるのではないでしょうか。
現在を救うのは東洋の思想だと思います。いつまでもアメリカの言いなりになるのではなく、300年の歴史もない未熟な国を本当の世界の盟主たらしめるように教え導く「友人」にならなければなりません。グローバル時代に求められているのはそんな人材なのではないでしょうか。