2024年7月29日月曜日

東洋が救う

  トランプ元大統領暗殺未遂事件のテレビを見た時「何と悪運の強い!」というのが偽らざる印象でした。そして秀吉を思い浮かべました。丁度山本兼一の『利休にたずねよ』を読んだばかりだったこともあったのですが「あくなき権力欲」と強運がどこか似通っているように感じたからです(秀吉に怒られるかな?)。

 トランプ氏と秀吉にもうひとつ類似点を覚えるのは「分断」です。トランプ氏が敵を仕立てて煽り立て憎悪を植えつけて国民を分断するのは周知のところですが、秀吉が統一したばかりの日本国を分断したのも歴史に明らかです。信長の跡をついで戦国分裂のわが国を平定し統一したまでの秀吉は尊敬に値するものですが、持続可能な官僚組織を築いて統一を安定させる努力を怠り、上りつめた権力の座に惑溺し、権力に狂って朝鮮征伐という暴挙に打ち出たために関ヶ原合戦という悲惨な「分断」を招いたのです。

 しかしトランプ氏と秀吉の間に根本的な相違点を感じるのはなぜでしょうか。時代の違いもありますがそれだけでは片づけられない何かがあります。それを見事に説き明かしてくれているのが鈴木大拙です。(以下は鈴木大拙著『東洋文化の根底にあるもの(195812.22)』からの引用です)

 

 分割は知性の性格である。まず主と客をわける。われと人、自分と世界、心と物、天と地、など、すべて分けることが知性である。主客の分別をつけないと、知識が成立せぬ。知るものと知られるもの――この二元性からわれらの知識が出てきて、それから次から次へと発展してゆく。哲学も科学も、なにもかも、これから出る。個の世界、多の世界を見てゆくのが、西洋思想の特徴である。

 それから、分けると、分けられたものの間に争いの起こるのは当然だ。すなわち、力の世界がそこから開けてくる。力とは勝負である。制するか制せられるかの、二元的世界である。(略)高い山が自分の面前に突っ立っている、そうすると、その山に登りたいとの気が動く。いろいろ工夫して、その絶頂をきわめる。そうすると、山を征服したという。(略)この征服欲が力、すなわち各種のインペリアリズム(侵略主義)の実現となる。自由の一面にはこの性格が見られる。

 二元性を基底にもつ西洋思想には、もとより長所もあれば短所もある。個個特殊の具体的事物を一般化し、概念化し、抽象化する、これが長所である。これを日常生活の上に利用すると、すなわち工業化すると、大量生産となる。大量生産はすべてを普遍化し、平均にする。生産費が安くなり、そのうえ労力が省ける。しかし、この長所によって、その短所が補足せられるかは疑問である。すべてを普遍化し、標準化するということは、個個の特性を滅却し、創造力を統制する意味になる。(略)ある意味で創作力の発揮になるものが、きわめて小範囲を出ない。つまりは機械の奴隷となるにすぎない。(略)だれもかも、一定の型にはまりこんでしまう。どんぐりの背くらべは、古往今来、どこの国民の間にも見られるところだが、知性一般化の結果は、凡人のデモクラシーにほかならぬ。

 

 西洋思想の根本を「分割」と捉えて批判しこれを超克しなければならないと考える思想家・哲学者・宗教家は少なくなく、西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」はその系譜ですし寺田寅彦も晩年近い考え方を述べていたように覚えています。しかし、戦後80年近くなってもいまだにそこへの接近はほとんどみられず、むしろその先鋭的傾向――新自由主義へ退歩した報いが現在のわが国です。戦争によって全部が破壊され、果たしてこれまでの「成長」と「競争」を目的とした社会運営が良かったのかという反省にたって、「国連」という国際協調のシステムを構築したのですが先進国の「強欲」がその流れを中断させ、今や逆行へ動き出そうとしているのです。

 では東洋的思想とは?

 

 東洋民族の間では、分割的知性、したがって、それから流出し、派生するすべての長所・短所が、見られぬ。知性が、欧米文化人のように、東洋では重んぜられなかったからである。われわれ東洋人の心理は、知性発生以前、論理万能主義以前の所に向かって、その根を下ろし、その幹を培うことになった。近ごろの学者たちは、これを嘲笑せんとする傾向があるが、それは知性の外面的光彩のまばゆきまでなるに幻惑せられた結果である。畢竟するに、眼光紙背に徹せぬからだ。

 「光あれ」という心が、神の胸に動き出さんとする、その刹那に触れんとするのが、東洋民族の心理であるのに対して、欧米的心理は、「光」が現れてからの事象に没頭するのである。主客あるいは明暗未分以前の光景を、東洋最初の思想家である老子の言葉を借りると、「恍惚」である。荘子はこれを「混沌」といっている。(略)それで、まだ何とも名をつけず、何らの性格づけをしないとき、かりに、これをまだ動き始めぬ神の存在態とする。(略)またこれを「玄牝(げんひん)」ともいう。母の義、または、雌の義である。ゲーテの「永遠の女性」である。これをってれずわざるところに、「嬰児」に復帰し、「無極」に復帰し、「樸」に復帰するのである。ここに未だ発言せざる神がいる。神が何かをいうときが、(略)無象の象に名のつけられるところで、これから万物が生まれ出る性が成立する。分割が行ぜられる。万物分割の知性を認識すること、これもとより大事だが、「その母を守る」ことを忘れてはならぬ。東洋民族の意識・心理・思想・文化の根源には、この母を守るということがある。である、ではない。これを忘れてはならぬ。

 欧米人の考え方、感じ方の根本にはがある。キリスト教にもユダヤ教にもはあるが、はない。(略)彼らの神は父であっては母でない。は力と律法と義とで統御する。母は無条件の愛でなにもかも包容する。善いとか悪いとかいわぬ。いずれも「併呑」して「改めず、あやうからず」である。西洋の愛には力の残りかすがある。東洋のは十方豁開(じっぽうかつかい)である。八方開きである。どこからでも入ってこられる。

 

 今の混沌を一神教のせいにする傾向があります。一見理あるように感じますがそれではキリスト教ユダヤ教イスラム教を信じる民族・国家の国民を説得することはできません。禅宗の大和尚の言葉は凡人にはなかなか理解できませんが「母を守る」という教えは納得できるのではないでしょうか。

 現在を救うのは東洋の思想だと思います。いつまでもアメリカの言いなりになるのではなく、300年の歴史もない未熟な国を本当の世界の盟主たらしめるように教え導く「友人」にならなければなりません。グローバル時代に求められているのはそんな人材なのではないでしょうか。

 

 

 

 

2024年7月22日月曜日

もちつもたれつ

  今ほど「勘違い」の横行している時代は曽てなかったのではないでしょうか、最近しみじみ思います。直近でいえば職員の自殺さえ出た兵庫県の斎藤元彦知事のパワハラ事件ですが彼は完全に勘違いしています。知事が兵庫県の「最高権力者」であると、少なくとも兵庫県庁という組織では「絶対者」であると勘違いしているのです。たしかに兵庫県庁では一番上に位置していますがそれは「組織図」の上のことで知事というのは「役割り」であってそれは区役所の窓口で県民に接する「役割り」の職員と何ら違いはありません。ただある事案で選択肢が複数あって最終決裁を知事に委ねられたとき「強制力」が与えられているだけで、それは「支配力」ではないし、まして「人格を否定する」『暴力』などであるはずもないのです。そもそも公務員は憲法(15条)で「すべての公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」と定められているように「奉仕者」であることを彼は理解しているのでしょうか。彼はしばしば「県民の負託を受けている」と強弁してかたくなに「辞任」を拒否していますが、彼は県民の僅か2割の支持しか受けていないのです(投票率41.1%得票率46.9%)。県庁の職員や支持母体の自民党や維新の議員団からの辞任要求は彼を選ばなかった8割の県民を代弁していると見ることもできるのです。

 昔、美濃部達吉という憲法学者は「主権は国家にあり、天皇は国家の最高機関として憲法に従って統治する」という有名な「天皇機関説」を唱えましたが、天皇でさえ国家の最高機関という「役割り」を担う存在であり、憲法の制約を受けると論じたのです。知事が県庁という組織の中の「一つの役割り」であることなど自明のことであり、天皇が憲法の制約を受けるように知事も諸種の法規はもとより兵庫県独自の法であったり手続きの制約を受けるのは当然のことで、今回の騒動でも先ずは「内部通報者保護制度」で知事はじめ兵庫県庁の上級職員は自死した内部通報者を保護すべきだったのですが、それがまったく機能しなかった兵庫県庁の統治機構は根本的な改革が必要です。

 

 しかし斎藤知事のような「勘違い」はわが国の至る処に存在しているのが現状で、それは行政官庁、企業に限らず「国会議員」にもそんな輩がうようよいます。国会議員と秘書の関係は、自民党の裏金問題で明らかになったように「支配―被支配」の関係であり、とりわけ北海道選出の自民党長谷川岳参議院議員の北海道庁職員に対するパワハラは想像を絶する「勘違い」です。先ず襟を正すべきは国会議員諸氏でしょう。

 

 半世紀ほど前に国民的演歌歌手がシャレで言った「お客様は神様です」という言葉が誤解されて「カスハラ」が大問題になっています。ウィキペディアによると「従業員より優位な立場にある顧客らによる理不尽な要求やクレーム。小売りやサービス業、医療・介護などの現場で多いとされる」とありますが、この表現自体に勘違いがあります。「従業員より優位な立場にある顧客」というのは誰が決めたのでしょうか。杓子定規なことを言えば「市場における供給者(売り手)と需要者(買い手)は対等」であるはずです。私のような年寄りは終戦直後の「物資不足時代」を経験していますから、都会から農村へ「ヤミ食糧」の買い出しに行って、高価な着物や金製品や宝石を差し出して食料を分けてもらう交渉をしても「売りジブリ」にあい、まったく「不釣り合い」な「交換」に泣かされたことをありありと覚えています。そんな経験を踏んで昭和の市場や商店街では売り手と買い手は対等に、会話を楽しみながら売り買いしました。大量生産、大量消費の時代になってスーパー、コンビニが小売り店の主体になり、飲食業においても個人商店から全国チェーンの大資本店が優勢になるにしたがって、売り手買い手の関係が「人間味のない」ものになり「お客様は神様です」の時代になったのです。

 お客(買い手)が「上位者」で店員さん(売り手)は絶対服従の「下位者」という位置づけの「勘違い」はいつ、どこからはじまったのでしょうか。こんな「勘違い」がまかり通るようになったのは何故でしょうか。私見ですが、売り手側が大企業化することで組織のヒエラルキーが「権力構造化」して現場の社員が本社社員の「下位」に位置づけられ、とくにアルバイト店員さんが「消耗品化」されたことが原因なのではないでしょうか。しかし今や「人手不足時代」です。これまでのような人事システムでは飲食業も小売業も成立しないでしょうし医療・介護職も同様です。カスハラがなくなるのもそう遠いことではないでしょう。

 

 勘違いの最たるものは「自民党長期政権」です。2012年の安倍政権から現在の岸田政権までの13年で国会議員は何でも許される絶対者のような勘違いが定着してしまいました、とくに安倍派議員は。領収書のない金銭のやり取りなどあり得ないのに(公的な関係で)国会議員は「特権階級」だから年間1億円を超える機密費でも「不見転(みずてん)」でやり取りが行われてきたのです。あまつさえパーティー券の売り上げを「私」する「裏金問題」さえも平然と20年以上許されてきたのです。

 しかし最も罪深いのは3割に満たない支持率であるにもかかわらず「一部のための奉仕者」として「戦後の日本のかたち」を国会を無視して内閣主導で行なったことです(直近の2021年衆議院議員選挙では投票率55.9%、得票率約49%ですから支持率は約27%)。まず経済面では供給側(企業)を異常に優遇する政策を採用し、法人税を半減、貸出金利をゼロにするために国債と株式を日銀に買いまくらせ市場にジャブジャブお札をばらまいて「異常な円安」に導きました。結果大企業は空前の好業績を上げ株高を演出しました。500兆円を超える内部留保を貯め込んだ大企業と一部の富裕層は株高の利益を享受しましたが、一般国民は実質賃金23ヶ月減少と「異常な物価高」に苦しんでいます。

 国防政策は「専守防衛」が日本国の「かたち」でした。それを内閣の勝手な憲法解釈で「敵基地攻撃」も「同盟国防衛」も可能な体制に変更してしまったのです。

 利益を享受したのは「一部の人たち」――企業、富裕層、アメリカ、防衛産業でありその「ツケ」は一般国民(消費者)が支払わされているのです。

 

 公務員は「全体の奉仕者」なのですから一般市民も企業も、豊かな人もそうでない人も「もちつもたれつ」する社会にわが国を変えてほしいと願っています。

 

 

 

 

 

 

2024年7月15日月曜日

制度疲労

  万博の子ども無料招待事業に保護者が反対する署名活動をはじめたという報道に接して驚きを隠せません。この事業は大阪府が施行するものでこれまでにも大阪府教職員組合や交野市などが反対していましたし、会場の安全性や引率する先生の問題、往復の交通手段など未解決の問題を放置したままの強権的な事業展開を問題視する識者の見解もあって今後の成行きは必ずしも大阪府の期待通りに進むか疑問視されています。

 私が驚いたのは「お上」の決めたことに一般市民が公然と反対を表明することに隔世の感を抱いたのです。我々世代、いや我々の親世代なら何も言わずにありがたく頂戴して諸々の支障はこちらが引き受けてお上の思惑通りにつつがなく実現に尽力したにちがいありません。世の中は完全に「変わった」のです。

 

 今の世の中を回している多くの制度はほとんど戦後すぐか高度成長時代につくられたものです。憲法も民法も戦後すぐに制定されましたから、市民生活にかかわる民法などは根本的な「氏姓制度」や「婚姻制度」でさえも時代にそぐわなくなってしまったのです。社会保障制度もそうです。高度成長時代につくられたものですから「賦課方式」などという今から考えたら理論的には破綻当然のシステムを採用してしまっているのです。現役世代が受給世代(高齢者)の年金を負担するこの制度は、人口増大と給料の右肩上がりを前提としなければ成立不可能な制度です。今もしこんな制度を提案したら即刻罷免されるにちがいありません。それを最高学府を出たわが国トップクラスの若手官僚と上級官僚が、そしてまだ「優秀」だった政治家までもが「真剣」に討議して法律として制度を確立してしまったのです。信じられませんが……。

 ですから今の制度の多くは「制度疲労」してしまっているのです。

 

 自衛官の昨年の採用者割合が自衛隊創設以来の最低を記録して51%になったとショッキングに報じられています。いろいろな原因が上げられていますがその論調のすべてに欠落している原因があります。「戦争のリアリティ」です。ロシアのウクライナ侵攻、イスラエルのガザ攻撃など国際紛争が多発する一方で中国の影響力が著しく強化されてアメリカと比肩するようになってわが国としても無視できなくなってきて、さらに北朝鮮の核開発が驚異的な進展を遂げて脅威になってきた、などの結果として「台湾有事」を煽り立てて軍事費を5か年計画で43兆円に拡大する、南方諸島の軍備配置を急拡大するなど国民に「戦争のリアリティ」を強く印象づけてきた政府の方針は、確実に国民の「緊迫感」を高めています。今の若者にとって自衛隊員は「安定した公務員」ではなく「戦争の現地に配備される」可能性の極めて高い「危険な仕事」になっているのです。私たちのリアリティは緩いものですが沖縄の人にとって戦争はいつ自分たちに降りかかってきてもおかしくない「災難」と感じているにちがいありません。それは基地のある地方の方も原発のある地区の人も程度の差はあっても同じでしょう。国民の引き受けねばならない義務ではなく「災難」と受け入れているところがわが国の特殊なところです。負担が「公平」でないからです。公平でないのは自衛官も同じです、若者で自衛官になろうとする人たちの多くは選択肢が限定的だった人たちだからです。

 1950年に保安隊が創設されてそれが警察予備隊になり自衛隊になりました。そして2007年防衛庁が防衛省に昇格しました。創設当時の保安隊に戦争は非現実的なものでした。国土の保安と「専守防衛」が任務でした。それが今や「敵基地攻撃」も「同盟国防衛」も任務なのですから「戦争のリアリティ」は皮膚感覚的なものになっています。自衛隊の不祥事が相次いでいますが「綱紀粛正」の実現性は極めて低いでしょう。なぜなら「若い自衛官」と「上級自衛官」ではリアリティに差があり過ぎるからです。完全に制度疲労しているのです、自衛隊という組織は。

 

 保護司制度も制度疲労しています。それは何年も前から関係者の間では共有されていた危機感なのですが政治も行政も無視してきました。そして「殺人事件」が起こってしまったのです。 

 保護司は昭和25年(1950)にできた制度です。「社会奉仕の精神をもつて、犯罪をした者及び非行のある少年の改善更生を助けるとともに、犯罪の予防のため世論の啓発に努め、もつて地域社会の浄化をはかり、個人及び公共の福祉に寄与することを、その使命とする」と規定されています。一方保護観察官は「犯罪をした人や非行のある少年に対して、通常の社会生活を送らせながら、その円滑な社会復帰のために指導・監督を行う「社会内処遇」の専門家です。また、犯罪や非行のない明るい社会を築くための「犯罪予防活動」を促進しています。保護観察官になるためには、国家公務員試験に合格し、法務省保護局又は更生保護官署(地方更生保護委員会又は保護観察所)に法務事務官として採用された後、一定の期間、更生保護行政を幅広く理解するための仕事を経験することが必要です」と定められています。

 現在保護観察官約千人、保護司約4万7千人で犯罪者の更生自立に当たっています。勿論保護司も必要な研修を受けていますが保護観察官の「国家公務員資格、法務事務官資格、更生保護行政の実務経験」との差は余りに隔絶がありすぎです。この千人と4万7千人が更生保護業務を担当しているのですからおのずと実務のほとんどが保護司の側に偏ってくるのは否めません。

 

 1950年当時、地方の実力者や資産家の社会的地位は歴然とあって地域に相当な影響力を保持していました。そんな人たちの多くが「保護司」を「お上」から委嘱されて犯罪者の更生保護に当たりました。地域のおとなでも実力者や資産家のいうことは「無言の圧力」となって受け入れざるを得ない状況がありました。それがいまだに選挙のとき「後援会の実力者」として影響力を保持しているのです。ですから犯罪者の更生に一定以上の「効果」をもたらしたことは当然だったでしょう。加えて「コツコツ真面目に働いたらいい生活」が得られるという社会経済情勢でもありました。金の卵といわれて地方の子どもたちが都市に働きに出てそれなりの「成功」をおさめることのできた時代でした。

 今や地方の実力者や資産家の影響力は昔ほどではなくなりましたし、なんといっても「真面目にコツコツ働い」ても「普通の生活」さえ手に入れることが困難になっているのです。

 民間人の「善意」を頼りにした「保護司制度」はその存立基盤がほとんど消滅して「制度疲労」しているのです。

 

 報道ではほとんど伝えられていませんが殺人を犯した観察保護者は「4号観察」に分類されていました。少年院や刑務所で入念なアセスメント(評価・分析)を受け精神面のサポートや社会復帰の環境が整備されてからではなく、「更生の専門家でない裁判官によりいきなり保護観察に付された執行猶予判決を受けた」4号観察だったのです。4号観察のリスクは素人考えでも理解できることなのに放置されたまま今日に至っています。

 殺された新庄さんは制度の、行政の「不作為の犠牲者」と呼ぶにはあまりに痛ましい犠牲でありました。

 

     

 

 

 

 

 

2024年7月8日月曜日

般若心経と孫

  ふと気がついたのですが今年はまだ蝉の声を聞いていません。それなのにこの暑さ、地球は狂っています。こんなときだからこそ……。

 

 孫が四月で二才になりました。自意識がめばえおしゃべりも達者になってもうすぐ自在に話すようになるでしょう。そうなると憎まれ口もきくようになりますから今が可愛い盛りです。今年になってテレビが解禁になりYouTubeでアンパンマンを見てドハマりしていますが一番のお気に入りがバイキンマンというところはさすが我が孫と悦に入っています。いつだったか久しぶりに会いに行くと待ちかねたようにスケッチブックを持ち出してきました。開いた頁を見るとアンパンマンシールが一面に貼ってあります。それを剥がそうとするのですが紙にシールですからおいそれとはいきません。じいちゃんばあちゃんも挑戦しますがうまくいきません。「これムリやねぇ」おばあちゃんは早くもお手上げです。ここはじいちゃんの腕の見せどころ。多分お母さんお父さんも失敗したのでしょう、じいちゃんをじっと見つめています。爪で何度も擦りたてていると何とか一枚が剥がれました。できたよとさし出すとさっと受け取り貼り付けます。「わーっ!」と歓声を上げて嬉しそうに笑っています。「おじいちゃん!」これまでのじいちゃんから格上げです。

 これまで彼は自分を周りのおとなに反射して自己を認識していました。自分を見ることはできませんからおとなの反応を自分の鏡に映して自分というものの存在を把握して自己を形づくってきたのです。「可愛いね」「色が白いなぁ」「ご飯一杯食べて偉いね」「大きくなったね」そんな大人の言葉で自分を知ってきたのです。したいこと、欲しいものでもおとなが「だめ」といえばあきらめるしかなかったのです。ところが自我が目ざめて自分の「したい」ができたのです。アンパンマンシールもこれまでだったら親ができないと言ったらあきらめていたでしょう。それが自分の欲望が生まれて実現にむけて両親がだめならじいちゃんばあちゃんにも頼ってみよう、そんな段階に今さしかかっているのです。

 

 般若心経を小学三年から唱えています。中学から二十年ほど断絶していましたが復活して、今や毎日の欠かすことのできない習慣となって私の健康の大元になっています。小学三年になって祖母が近くの「おがみ屋さん」へ行かせました。病弱な私を般若心経を唱えることでお加護をいただこうとしたのでしょう。おがみ屋さんの後ろに座って般若経を聞いて、あとについて唱えて覚えるのです。小学三年はスグに覚えました。ですから私の般若心経は本で覚えたものではありません、耳で覚えたのです。最近私の周りでも般若経を唱える人が増えてきましたが彼らの本で覚えたものと私のお経は聞こえ方が違います。「色受想行識(しきじゅそうぎょうしき)」は「しきじゅうそうぎゃあしき」ですし「無眼耳鼻舌身意(むげんにびぜつしんい)」は「むうげんにびいぜっしんに」となるのです。

 般若心経の真髄は「空」です。「色即是空、空即是色」です。「空」を教えるのに「トンネルの譬(たとえ)」が使われます。「トンネルを描いて下さい」と言われると、まず地面を描いてその上にかまぼこのような半円をのせ、さらに山を描いてトンネルを描いたことになります。しかしながら地面も壁も山もどれをとっても「トンネル」ではありません。トンネルとは「空間」なのです。それを表すために地面を描いたり山を描いたりトンネルの周りのものを描くだけで「トンネル」そのものは描けないのです。トンネルの本質は「空洞」にあるのです、トンネルは空、空っぽです。これを「空性(くうしょう)」といいます。般若心経ではこの周りのものを「五蘊(ごうん)」といいます。先ほどの「色受想行識」がそれです。周りの条件で出来上がっている「空」、それは条件が変わると変わるものです。「無常」、変わらないものはないのです。

 今苦しんでいる人も永遠に今の状況が続くということはありません、いつかは条件が変わって「苦しみ」から解放されると般若心経は教えるのです。

 

 もうひとつ「鏡の譬」があります。私たちの心は「鏡」のようなものです、前にくれば現れますが去れば消えるだけです、しかも後には何も残りません。物が映ったからといって、鏡の中に何ものかが生じたわけではありません。これが「不生不滅(ふしょうふめつ)」です。犬の糞が映っても鏡が汚れることはありません。反対に綺麗な花が映っても鏡が美しいものに変わることもないのです。「不垢不浄(ふくふじょう)です。鏡の中に物が映ったからといって鏡の目方は変わりません、物が去ったとしても鏡の重さに変化はありません。「不増不減(ふぞうふげん)」なのです。こうした鏡の性質を「仏心(ぶっしん)」といいます。

 

 赤ちゃんは一人では何もできません。全部周りの大人――両親であったりじいちゃんばあちゃんたちに「世話」してもらって存在できるのです。知恵ができ、力がついて「学力」「経済力」を獲得して社会的地位を築き財産を手にすると「我が」「我が」という気になりがちですが、よくよく考えてみると誰かの「お陰」が必ずあったはずなのです。それを「慢心」が見えなくしているのです。「自我」があってすべて自分が自分を作っていると思い込んでいますが、人と人の間に生きてきたのですから他人の反応を映して判断してきたはずなのです。

 「人間万事塞翁が馬」といいます。80年も生きてくるとこの言葉がしみじみと身に沁みてきます。若いうちは我が力で今日があると考えてきましたが所詮は「塞翁が馬」です。そんな80才の老爺の感慨は、般若心経の教えは「赤ちゃん」のような「無垢」な心に戻れ、と戒められているように感じます。

 

 「門前の小僧習わぬ経を覚え」で般若心経を覚え「論語読みの論語知らず」を通してその教えを勉強しようとは思わないで暮らしてきました。何か畏れ多い、勿体ないと思ったのです。しかしもう80才です。そろそろ般若心経の教えを知っていいころではないか。そう思って勉強したら孫の成長の姿に教えがひそんでいた、そんな思いを抱いてしまいました。とても般若心経が分かったとは思っていませんが「長生きはするものだ」と感謝の気持ちが湧いてきました。そして遅く生まれてきてくれた孫に「ありがとう」と言いたいです、心から。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2024年7月1日月曜日

新しい教育

  今年になってわが国の教育制度について不安を抱いた方が多いのではないでしょうか。原因はAIです。特に生成AIが身近なものになって今の教育が「小型AI」、それも精度の悪いAI型の人間をつくることを目的としているのではないかという不安を持たれた方がいるのではないかと推察するのです。国定教科書を唯一のテキストとして、40人の児童生徒に一斉授業し、共通テストで全国一律の学力判定を行う現在の教育制度は結果的に「AI型知識習得人間」を養成することになっていないでしょうか。

 折りしも「世界競争力ランキング」が発表になってわが国は38位(主要67ヶ国・地域中)に低迷して過去最低を記録したことが分かりました(スイスの国際経営開発研究所〈IMD〉発表の2024年版)による)。「経済実績」21位、「インフラ」23位、「政府の効率性」42位、「ビジネスの効率性(企業の技術革新や利益)」はなんと51位に低迷しています。 

 

 教育の機会均等は親の経済力によって著しく不平等になっていますし、非正規雇用が2023年には2124万人(雇用者に占める割合4割)にも達しています。国会議員の女性比率は22.6%に止まっていますし閣僚の平均年令は60才を超えておりOECD中(53.1才)最高齢なのです。

 要するに今のわが国は、教育格差によって多くの若い能力を「死蔵」し女性の能力が生かし切れておらず、壮年(高齢)男性が「意志決定権」を寡占しているのです。その結果が上の「政治の効率性」「ビジネスの効率性」の無惨な結果になって現れているのです。

 にもかかわらず中央教育審議会・高等教育の在り方に関する審議会で「国立大学の学納金(授業料)を150万円程度にするべき(2040年ころに)」という提案がなされたのです(現在は約53万円)。今でも教育格差が著しいわが国でこれ以上機会を不平等にするというのですから驚きです。そうではなくて世界的に最低ランクの公的教育費(対GDP比3.46%、世界121位)を今の倍くらいに、せめて5%台にアップして教育費無償化を進めるくらいの抜本策を講じないとズルズルと国の活力を劣化させてしまうに違いありません。もちろんその結果国民は今(1人当りGDP33,806ドル/34位2022年)よりもっと豊かでなく格差の大きな社会に住むことになるでしょう。

 

 さてではAI時代に適した「新しい教育」はあるのでしょうか。あるのです。日本だけが相変わらずPISA(OECDが定期的に行っている15才の生徒の学習到達度テスト)の順位に拘泥して「学力」を高めることに注力している間に世界の潮流は「批判的思考(クリティカル・シンキング)」の養成に教育の主目標が変わっているのです。日本のPISAの得点(2022年)は科学的応用力2位、読解力3位、数学的応用力5位と世界的に高いレベルを達成していますが「批判的思考」を養うという観点からは世界に大きく後れを取っているのです。OECD(経済協力開発機構)の国際教員指導環境調査(TALIS)の最新データ(18年)によると、「批判的に考える必要がある課題を与える」ことを自らの授業で「しばしば」または「いつも」行なうと答えた教員は中学校で調査参加国平均で61.0%だったのが日本では12.6%と圧倒的最下位なのです。「明らかな解決法が存在しない課題を与える」については、参加国平均が中学校で37.5%に対して日本は16.1%で最低レベルになっています。

 

 では「批判的思考(クリティカル・シンキング)」とはどんな教育なのでしょうか。自らの思い込みや偏見による推論、既存のアプローチに対し批判的・内省的に深く思考する学習です(他人を批判することではありません)。この思考法は証拠やデータを広く精査・分析し、異なる視点をもつ他者の多様な意見を聞き、議論しながら答を求めていくアプローチを養成します。議論を活性化し新たな発明や創造を生みだしていくために多様な背景を持った人々がいることが重要になってきます。デジタル化が進み不正確な情報が蔓延する中、データを批判的に評価して分析する能力は不可欠です。批判的思考を身につけるための学びの場で教師の役割は、文献やデータの分析の仕方に指針を与えつつ、その教科の専門的な知見を背景にグループ討論などを通して思索を深めるプロセスのファシリテーター(進行役)を担うことになります。(「批判的思考」型の教育は初等教育での基礎的学力習得後に行なわれます)

 こうした教育を実現する為には現状の変革が求められることはまちがいありません。世界最長といわれる労働時間、教務以外の一般事務、部活など労働環境の改善はもちろんのこと職能開発時間の確保(参加国平均週2時間に対して日本は0.6時間といわれています)は必須で、教師が教育の専門家として尊重される環境を整えなければなりません。

 

 教育こそあらゆる問題解決の中核にあります。「自分の行動で、社会や国を変えられると思う」と感じる若者が5割を切る今の日本を活性化するためには教育改革は必須です。そのための「教育投資の増大」は他の予算を削ってでも実現しなければなりません。

 教育に投資しない国に未来はないのです。

 

《資料―2024年版IMD発表世界競争力ランキング主要67ヶ国・地域》上位1~3位はシンガポール、スイス、デンマークで台湾8位、米国12位、中国14位、韓国30位、ドイツ34位、英国28位、フランス31位などとなっています。

《資料―2022年公的教育費の対GDP比/179ヶ国》米国5.44%(42位)、英国韓国5.40%(45位)、仏国5.24%(51位)、独国4.54%(75位)、中国3.30%(125位)

(この稿は2024.6.18京都新聞・中満泉(国連事務次長)「現論――「批判的思考」育成、日本は遅れ」を参考にしています)