2024年7月8日月曜日

般若心経と孫

  ふと気がついたのですが今年はまだ蝉の声を聞いていません。それなのにこの暑さ、地球は狂っています。こんなときだからこそ……。

 

 孫が四月で二才になりました。自意識がめばえおしゃべりも達者になってもうすぐ自在に話すようになるでしょう。そうなると憎まれ口もきくようになりますから今が可愛い盛りです。今年になってテレビが解禁になりYouTubeでアンパンマンを見てドハマりしていますが一番のお気に入りがバイキンマンというところはさすが我が孫と悦に入っています。いつだったか久しぶりに会いに行くと待ちかねたようにスケッチブックを持ち出してきました。開いた頁を見るとアンパンマンシールが一面に貼ってあります。それを剥がそうとするのですが紙にシールですからおいそれとはいきません。じいちゃんばあちゃんも挑戦しますがうまくいきません。「これムリやねぇ」おばあちゃんは早くもお手上げです。ここはじいちゃんの腕の見せどころ。多分お母さんお父さんも失敗したのでしょう、じいちゃんをじっと見つめています。爪で何度も擦りたてていると何とか一枚が剥がれました。できたよとさし出すとさっと受け取り貼り付けます。「わーっ!」と歓声を上げて嬉しそうに笑っています。「おじいちゃん!」これまでのじいちゃんから格上げです。

 これまで彼は自分を周りのおとなに反射して自己を認識していました。自分を見ることはできませんからおとなの反応を自分の鏡に映して自分というものの存在を把握して自己を形づくってきたのです。「可愛いね」「色が白いなぁ」「ご飯一杯食べて偉いね」「大きくなったね」そんな大人の言葉で自分を知ってきたのです。したいこと、欲しいものでもおとなが「だめ」といえばあきらめるしかなかったのです。ところが自我が目ざめて自分の「したい」ができたのです。アンパンマンシールもこれまでだったら親ができないと言ったらあきらめていたでしょう。それが自分の欲望が生まれて実現にむけて両親がだめならじいちゃんばあちゃんにも頼ってみよう、そんな段階に今さしかかっているのです。

 

 般若心経を小学三年から唱えています。中学から二十年ほど断絶していましたが復活して、今や毎日の欠かすことのできない習慣となって私の健康の大元になっています。小学三年になって祖母が近くの「おがみ屋さん」へ行かせました。病弱な私を般若心経を唱えることでお加護をいただこうとしたのでしょう。おがみ屋さんの後ろに座って般若経を聞いて、あとについて唱えて覚えるのです。小学三年はスグに覚えました。ですから私の般若心経は本で覚えたものではありません、耳で覚えたのです。最近私の周りでも般若経を唱える人が増えてきましたが彼らの本で覚えたものと私のお経は聞こえ方が違います。「色受想行識(しきじゅそうぎょうしき)」は「しきじゅうそうぎゃあしき」ですし「無眼耳鼻舌身意(むげんにびぜつしんい)」は「むうげんにびいぜっしんに」となるのです。

 般若心経の真髄は「空」です。「色即是空、空即是色」です。「空」を教えるのに「トンネルの譬(たとえ)」が使われます。「トンネルを描いて下さい」と言われると、まず地面を描いてその上にかまぼこのような半円をのせ、さらに山を描いてトンネルを描いたことになります。しかしながら地面も壁も山もどれをとっても「トンネル」ではありません。トンネルとは「空間」なのです。それを表すために地面を描いたり山を描いたりトンネルの周りのものを描くだけで「トンネル」そのものは描けないのです。トンネルの本質は「空洞」にあるのです、トンネルは空、空っぽです。これを「空性(くうしょう)」といいます。般若心経ではこの周りのものを「五蘊(ごうん)」といいます。先ほどの「色受想行識」がそれです。周りの条件で出来上がっている「空」、それは条件が変わると変わるものです。「無常」、変わらないものはないのです。

 今苦しんでいる人も永遠に今の状況が続くということはありません、いつかは条件が変わって「苦しみ」から解放されると般若心経は教えるのです。

 

 もうひとつ「鏡の譬」があります。私たちの心は「鏡」のようなものです、前にくれば現れますが去れば消えるだけです、しかも後には何も残りません。物が映ったからといって、鏡の中に何ものかが生じたわけではありません。これが「不生不滅(ふしょうふめつ)」です。犬の糞が映っても鏡が汚れることはありません。反対に綺麗な花が映っても鏡が美しいものに変わることもないのです。「不垢不浄(ふくふじょう)です。鏡の中に物が映ったからといって鏡の目方は変わりません、物が去ったとしても鏡の重さに変化はありません。「不増不減(ふぞうふげん)」なのです。こうした鏡の性質を「仏心(ぶっしん)」といいます。

 

 赤ちゃんは一人では何もできません。全部周りの大人――両親であったりじいちゃんばあちゃんたちに「世話」してもらって存在できるのです。知恵ができ、力がついて「学力」「経済力」を獲得して社会的地位を築き財産を手にすると「我が」「我が」という気になりがちですが、よくよく考えてみると誰かの「お陰」が必ずあったはずなのです。それを「慢心」が見えなくしているのです。「自我」があってすべて自分が自分を作っていると思い込んでいますが、人と人の間に生きてきたのですから他人の反応を映して判断してきたはずなのです。

 「人間万事塞翁が馬」といいます。80年も生きてくるとこの言葉がしみじみと身に沁みてきます。若いうちは我が力で今日があると考えてきましたが所詮は「塞翁が馬」です。そんな80才の老爺の感慨は、般若心経の教えは「赤ちゃん」のような「無垢」な心に戻れ、と戒められているように感じます。

 

 「門前の小僧習わぬ経を覚え」で般若心経を覚え「論語読みの論語知らず」を通してその教えを勉強しようとは思わないで暮らしてきました。何か畏れ多い、勿体ないと思ったのです。しかしもう80才です。そろそろ般若心経の教えを知っていいころではないか。そう思って勉強したら孫の成長の姿に教えがひそんでいた、そんな思いを抱いてしまいました。とても般若心経が分かったとは思っていませんが「長生きはするものだ」と感謝の気持ちが湧いてきました。そして遅く生まれてきてくれた孫に「ありがとう」と言いたいです、心から。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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