2024年11月11日月曜日

あほかかしこか

  昔からそうだったのですが娘たちが50才近くなって妻といっしょに「お父さんはあほかかしこか分からんわ」と口にすることが多くなってきました。言い訳すると最初は子どもたちに学校の勉強を鵜呑みにする危うさを気づかせるためにわざと常識に反する意見やモノの見方を教えていたのですが、齢を取るにしたがって世間一般のモノの見方考え方と異なることが多くなってきて、最近は本心から異論をいう傾向が強くなっています。そこで最近の「あほかかしこか」分からん話を聞いていただこうと思いました。 

 

 免許を返納してもうすぐ5年になります。もともと運転は得意でなかったのが78才になる前頃から反射神経の衰えと視野の狭さが顕著になってきて特に雨天と薄暮の運転が危うくなってきたので決心しました。今になって良い選択だったと思います。心配した不便さもそれほどでなく慣れてしまえばバスと歩きもそれなりに面白いものです。3系統あるバスの時刻に偏りがあって結局1時間に3本ほどになるのですが贅沢はいえません、行きはそれに合わせれば3本でも十分で帰りも20分くらいの待ち時間は何の不都合もありません。幸い敬老パスもありますので便利にさせてもらっています。

 バスになって気づいたことがあります。駅前のロータリーでのバスと歩行者の関係です。横断歩道を歩行者が通る時、たとえ一人であっても歩行者優先でバスが止まるのです。これはおかしい、そう感じるのです。少なくともバスには10人以上、多いときには30人くらいは乗っています。電車が到着した後などは断続的に3人4人また2人と歩行者がつづいて1分近く停車することも少なくありません。結局こうした積み重ねが「バスは遅れるもの」になっているのです。歩行者優先の原則に異存はありません。しかしこの原則も時によりけりで朝の出勤時間ギリギリの時などのこの待ち時間はサラリーマンのイライラのもとになっているにちがいありません。

 1人2人と10人~30人なら「多数の利益」を尊重したほうが理に適っているのではないでしょうか。駅前のロータリーでは「バス優先」であってもいいのではないか。わたしのあほな考えの「1」です。

 

 京都に「嵐電」という電車があります。四条大宮から嵐山へ行く電車ですが電車道が一般道路を走るところがあって三条通りは西大路から太秦までほとんどが一般道路になっています。西大路三条の通過時には信号があって電車も信号待ちします。交差点のスグ手前に駅があるので電車が青になるのをまって進行するのか電車に合わせて信号が青になるのか知りませんがとにかく電車が信号待ちするのです。

 こんな嵐電を知っている私にとって「開かずの踏切」の「解決策」として「なぜ電車が待たないのか」不思議でならないのです。最悪の場合「54分」も開かず状態になるのですから待たされる側の不満は尋常ならざるものがあるでしょう。JRと何本もの私鉄が通過するのを人も車もジッと、イライラしながら待つのですから「殺生やなぁ」と関西人ならぼやくこと必至です。地下に潜るにしても上を通すにしても「費用」は「地方自治体」負担になっているので実現が見通せないまま今日に至っているのです。

 電車が「一時停止」すれば明日にでも解決するのではないか。2分か3分か、1時間に2回でいいから電車が止まれば開かずの時間(待ち時間)」は15分か20分に短縮できますから相当の改善になります。今どきAI時代ですから時刻表の改訂作業と調整にそう手間は取らないはずです。

 あほやなぁ!と呆れ果てられましたが私は真剣なのです。

 

 マイナ健康保険証がいよいよ12月から全面実用化になります。ところが利用率は7月現在11.13%に低迷したままです。そこで紙の保険証との併用を当分認める方向で調整が続いています。現状ではそうならざるを得ないでしょうし個人だけでなく病院側も対策未完のところも少なくありません。利用者側とすればなんといっても「紛失」の危険性が払拭できません。自動車運転免許証と一緒じゃないかという向きもありますがそうじゃないのです、免許証より数段マイナカードの重さが違うのです。免許証なら再発行してもらえばいい、それまでの間運転を我慢すればいいだけだけどマイナカードは「自分が無くなってしまう」ような感覚なのです。銀行との紐付けのしてある場合は「不正利用」されてしまわないか。いろいろの不安をお役所は説明してくれません。なにより役所の「情報管理」体制への不信感がぬぐえません。お役所のシステム不良で使用不可になることはないのかという「不信感」も根強くあります。役所の考えでは今後運転免許証もマイナカードに一本化したいようですからますます「マイナカード」の「重み」は増していきます。不安、不信は募る一方です。

 そこでわたしに「あほな」解決方法があります。「マイナンバー」を紙の保険証や運転免許証の「発行ナンバー」にするのです。いまはそれぞれに「健康保険証番号」「運転免許証番号」を付与発行しているのを「マイナンバー」を流用・統一すればいい、というのが私の考えです。

 そもそも国の考えは「国民の単一ナンバーによる管理」にあるのですからカードにこだわる必要性はないのではありませんか。もちろんそれなりのシステムは構築しなければなりませんがそれはカードの場合も同様です。この方式なら紛失しても「1つの機能」だけで済みますから不安も少なくて済みます。適用機能の追加も抵抗少なく行えるのではないでしょうか。

 

 あほなことを縷々(るる)つづりました。呆れられたでしょう。でも80才を超えたころから世間の常識があほらしいと思うことが多くなってきたのです。執着するもの――競馬も酒も性欲もあれもこれもどうでもよくなってきて、というより体力も気力も衰えてきて欲を継続する能力が減退したのです。

 身軽になって気楽になって……。齢を取るのも悪くないものです。

  

 

2024年11月4日月曜日

中道右派の時代

  今回の選挙の意味は何であったのか。それは裏金に象徴される振り切った「安倍なるもの」への平衡力としての「中道右派」への「揺りもどし」であったと思います。「失われた30年」からの脱却が国民の悲願となって「強力な指導者」が待望され、この気運に乗じた「安倍一強」の8年はわが国の政治状況を限りなく右傾化してしまいました。自民党の得票率(衆議院議員選挙の投票率平均60%弱、自民党の得票率35%とすると)を考えると国民のせいぜい3割に満たない支持しか得ていないにもかかわらず「反安倍的」なものをほとんど無視して「国のかたち」を変えてしまったのです。それが今回の選挙前の国の政治的情勢でした。したがって「安倍なるもの」への不満のマグマは頂点に達していました。そこへ「裏金問題」が浮上したのですからこれが「発火点」となって「安倍なるもの」に対する「平衡力(釣り合いをとろうとする力)」が起動する環境は完全に整っていたのです。かといって国民は安定志向ですから一挙に「リベラル」へ揺り戻すことは望んでいませんでした。「中道」――それもどちらかといえば「中道右派」で様子を見よう、そんな選挙ではなかったか、と思います。

 維新は「亜自民党」ですから選択肢には入りません。「国民民主党(以下国民)」がもっとも条件に合致していると考えられたのでしょう。次いでリベラル色の強い「枝野立憲民主党(以下立民)」ではなく穏健で中道的な「野田立憲民主党」が選ばれたのです。

 

 今回の選挙について雑感をニ三述べてみます。まず納得のいかなかったことは、高市氏の「非公認候補の応援」です。そもそも今回の選挙は裏金問題に対する「国民の審判」にありました。自民党は「自浄作用」として悪質と判断したわずかな党員を「非公認」にしました。にもかかわらず高市氏は彼らを堂々と「応援」したのです。これは明らかに「反党行為」です。ところが自民党執行部はこれを「黙認」しあまつさえ2000万円を支給したのですから国民が怒るのも当然です。党は政党支部への党勢拡大費と言い訳しましたがそんな理屈が通るはずもありません。透けて見える「見せかけ『非公認』」は国民感情を逆なでしました。それが自公で218議席という惨敗を招いたのです。

 公明の退潮も同一線上にあります。非公認候補の推薦、支持を行なったのですから国民がそっぽを向くのも当然です。自民の暴走を矯正するストッパー役であったはずの存在が、結局安保法制の改変にも賛成したのですから党のイメージが汚染された感は否めません。

 激減した旧安倍派議員が石破体制に意趣返しすると息巻いていますが筋違いも甚だしいのではないでしょうか。裏金問題の張本人で今回の惨敗の責任の本当の張本人なのですから陳謝して当然で「逆恨み」するなど彼らの倫理観はどうなっているのでしょうか(もともと倫理観など持ち合わせていない連中でしたか)。

 

 今回の選挙結果の論評を聞いていて完全に抜け落ちている視点があります。ノーベル平和賞が「被団協」に与えられたことです。受賞後の記者会見で被団協・代表委員田中熙巳さんが石破さんの核共有論に対して「論外!政治のトップが必要だと言っていること自体が怒り心頭!」と石破さんの論文を厳しく批判した報道は、党内野党を標榜し国民目線を装っていた石破さんが実は以前から持論として「核容認」であったことをあからさまにしました。石破さんの米シンクタンク「ハドソン研究所」に寄稿した論文の概要は次のようなものです。核のシェア、持ち込みを具体的に検討しなければならないと提言し、北朝鮮とロシアの軍事同盟の強化は北朝鮮の核・ミサイル能力増強につながりそこへ中国の核戦力が加われば米国の東アジアにおける抑止力が機能しなくなる。それを補うためには核戦略の見直しが必要であり、核共有・持ち込みを含めた日米安保条約の現在の片務的非対称のものから「普通の国同士の軍事同盟」に格上げしなければならい。被団協の田中さんが「論外!怒り心頭!」と怒りをぶつけたのも当然なのです。

 ノーベル平和賞は極めて政治的な側面を持っています。時々の世界情勢を考慮して平和が冒(おか)される危険性が高まっていると判断すればそれを是正する考え方や政治的方向性に賞を与えることで「警鐘」を鳴らしつづけてきました。今回もロシアがウクライナ戦争において核の使用をチラつかせて戦況を有利に導こうとしていることや北朝鮮のあからさまな核戦力開発への暴走に対して危機感を抱いて、被団協の「核タブー」化への世界的規範の醸成に努めてきた長年の運動に対して改めて意識を向けるべく受賞を決定したのです。

 「世界唯一の被爆国」を常套句とする我が国の政治家たち。安倍さんも菅さんも岸田さんも事あるごとに口にしてきました。しかしその言葉とは裏腹に核の傘を容認しさらに安保法制の改変も断行したのです。これは自民党長期政権を支えた「3割弱」の支持層以外の国民の考えを完全に無視した暴挙であったのですが、しかし3割の岩盤支持層の人たちの中にも「行き過ぎ」ではと懸念する人もあったかもしれません。そうした従来の自民党政権とは反対の立場を表明していた石破さんが安倍さんでさえ表だって認めていなかった「核持ち込み」も「アメリカとの核の共有」も具体的に検討を開始する人であることを知ったのですから「拒否反応」は半端なものではなかったのではないかと思うのです。

 

 裏金に対する国民の怒りは想像以上に強く深いものでした。しかし「核容認論――核共有、持ち込み許容」に対する「拒否反応」もそれと同じくらい「反自民」に作用したのではないでしょうか。マスコミが取り上げないから表面にはでていませんが。

 

 マスコミは「中道右派」という表現をまったくしていません。しかしわが国の政治趨勢はこれまでの「右傾化」一辺倒から「中道右派」へゆるやかに移行していくに違いありません。同様に石破さんの「核容認論」に対する「拒否反応」も表面化していくことでしょう。

 わが国は今重大な転換点に立っているのです。