2024年12月23日月曜日

今年はいい年でした

  今年もあと十日足らず。振り返って見るとまあまあ良い年ではなかったかと思います。

 まず第一は被団協(日本原水爆被害者団体協議会)のノーベル平和賞受賞です。ロシアのウクライナ侵攻、ガザ地区でのイスラエルとハマスの紛争のどちらでも「核兵器攻撃タブー」が無視されかねない情勢の中、被爆者の長年にわたる核兵器禁止の訴えが「人類の平和」に貢献したと評価されたこの平和賞の世界に与える影響は決して小さくありません。プーチン氏が使用をちらつかせている「戦術核兵器」というのはどれほどの破壊力があるのかというと広島長崎に投下された原爆と同じ程度と推定されています。それを彼らは「被害がそれほど破滅的でない実際の戦争で使用可能な原爆」といい、ウクライナで、ガザで使用するかも知れないと『脅し』をかけているのです。彼らは田中(被団協代表委員)さんのこの言葉をどう受け止めているのでしょうか。

 

 たとえ戦争といえども、こんな殺し方、こんな傷つけ方をしてはいけない。私はその時、強く感じた。

 

 彼らは原爆の殺傷力の実際を知らないのです、知ろうとしないのです。通常兵器の『殺傷』の程度の激しいものと誤解しているのです。しかしそれは人類がこれまで経験してきた『殺傷』とは次元の異なるものです。ギロチンや股裂きの惨たらしさとは比較できない――人間が他者に与えてきたどんな『暴力』とも異なる『非人間的』な『殺傷』なのです。また今ドローンや無人機で、一部では「AI兵器」で殺傷が行われていますがこれも「非人間的殺傷」でこれまでとは次元の異なるものです、それは人間が他者を殺すことの心理的な傷から「逃避」できるという意味で「兵器の概念」を覆す「非人道的」兵器で早急に「使用禁止」を講じるべきです。今ここで人類が兵器に関して根本的な見直しを行わなければ、今後文明がどんなに「進歩」したとしても人間としては完全に『堕落』した次元に陥ってしまうのは間違いありません。

 

 平和賞受賞に関してもうひとつ嬉しいことは「高校生平和大使」の存在です。受賞発表の会見場に代表理事の隣に高校生の男女が並んでいて喜びを共にしている姿に驚きを隠せませんでした。これまでのどんな受賞会見でもこどもが同席することなど経験したことがありません、それが堂々と、普通に、理事の受賞コメントの次に彼らが同格で喜びの言葉を述べたのですから新鮮でした。そしてそれはオスロ(ノルウェー)でも見られました。現地の高校生と交歓して一緒に世界平和、核兵器禁止について堂々と発言する姿に次世代に希望を託することのできる安心と喜びを感じました。

 それにしても「唯一の被爆国」を常套句とする我が国政治家はなぜ「核兵器禁止条約」に参加しないのでしょうか。

 

 自民少数与党――これも新しい可能性の発現と感じました。長い自民党単独政権――とりわけ安倍一強の12年は「国会軽視」「言論軽視」の民主主義の危機の時代でした。

 三分の一に満たない「民意」をもって「少数の既得権者」の利益を野放図に拡大するアベノミクスは日本経済と社会に深刻な「格差」と「分断」をもたらしました。超金融緩和策に要した資金は20兆円、その後遺症である「円安」「物価高」対策に12兆円。これだけの資金を投入したアベノミクスのもたらしたものは4万円の「株高」と600兆円に上る大企業の「内部留保」の積み増しです。加えて43%の企業税率の23.2%に引き下げもありました。

 国民――家計の可処分所得の増大が国民を豊かにして消費の拡大につながる、これこそ経済政策の目的であるはずなのに莫大な資金を投入したアベノミクスはこの目的をまったく達成できなかったのです。今年の賃上げは大企業で5%超を達成しましたがそれでも定期昇給分を差し引けば物価高を克服していません。国民の過半を占める中小企業に勤める国民の「実質賃金」は物価高以下に止まっています。

 自民少数与党になってようやく「103万円の壁」問題を橋頭堡として国民を向いた経済政策が展開されそうな気配が見えてきました。178万円に可能な限り近い「非課税」を約束した自民党は早くも「123万円」という「ナメ切った」対応をしましたがいずれ――来年2月までには国民の納得を得る解決策に落ちつくことでしょう。

 政治資金の透明化と改正も「政策活動費の全廃」という半年前には想像もできなかった成果をもたらしました。「企業団体献金の禁止」に自民党は徹底抗戦するでしょうが今までのような「裏金」が堂々とまかり通るような企業献金は姿を消すことでしょう。一気に「清浄化」は無理でしょうが少しでも「正常化」につながる希望が持てる状況は嬉しい限りです。

 

 小泉改革からアベノミクスとつづいた自民党政治の最大の欠陥は、なんでも「自己責任」を押しつけたことだったと思います。原因が構造的なものであったり制度的なものであるにもかかわらず「自己責任」で追いつめるだけで根本的な解決を図らなかったために日本経済の成長が阻害された側面は否めません。非正規雇用の拡大による「労働力の流動化」は日本経済成長の要である生産性向上にはいい結果を生みませんでした。人手不足の強制力によってこの傾向は是正されるでしょうが過剰な「自己責任」を押しつけられたその他の分野でも救済策が講じられることを願っています。

 そのひとつの是正効果が「生活保護の保護基準額の引き下げ取り消し訴訟」で原告勝訴判決が相次いでいることです。13年に安倍政権が実施した減額措置が生存権を冒すとして全国都道府県で取り消しを求めた訴訟で、コロナ禍や21年からつづく物価高によって受給者の生命維持が脅かされており減額の継続は「裁量権の逸脱」として違憲と断じられ、原告勝訴と国家賠償が認められたのです。生活保護制度は国民の最後のセーフティネットと位置づけられているにもかかわらず「自己責任論」を押しつけ補足率(必要としている層に対する受給者数)を15~20%に低迷させ利用希望者に辛抱を強いているのです。組織的な門前払いもあり勝訴をきっかけにこの制度の円滑な運用が図られることを期待します。

 とはいえ長年の安倍一強で歪められていた司法や行政が少しでも「公正・公平」な方向に是正される兆しが見えたことに安らぎを覚えます。

 

 いろいろあった令和6年(2024年)も先行きに明るさを感じながらコラムを終えることができて嬉しい限りです。もちろん世界の情勢は決して楽観を許すものではありませんが来年は膠着状態から脱せられそうな予感がしています。

 ご愛読を感謝するとともに来年が善き年になりますよう願っています。

 

2024年12月16日月曜日

体で感じる

  先週まで夏日だったのに今朝の最低気温は10度を切る冷たさ、と思う間もなく秋は過ぎて冬に突入。そんな今年の季節感であっという間に冬も本格化、天気予報は寒い寒いを連発、今朝の最低気温は4度ですから冬支度をお忘れなくと脅されて朝トレを怯んでしまいます。風邪もあって1週間休んでしまったせいか太ももの筋肉が少し痩せてきたので思い切って夜明けを待って外へ飛び出してみました。寒さはそれほどでなく公園へインターバル速歩で向かうとうっすらと汗ばむ感じ。そうか風がないのです。陽が昇る前後から2時間ほどは風はほとんどなくむしろ10時ころに気温は10度近くなっても風が強いと寒さを厳しく感じます。

 夏もそうで気温が30度を超す真夏日でも湿気が少ないとサラッとして過ごしやすいことがあります。気温と体感温度は風と湿度の相関関係で相当開きがあって個人差があります、自分の体で感じて判断するのが賢明なのに過剰な天気予報の情報に圧倒されて自分で判断する前に暑いと予報があればエアコンをガンガン効かせる、寒いと脅されて朝トレを休んでしまう。そんな習慣に馴染んでしまっているのが昨今の私たちではないでしょうか。

 今朝の公園には仲間の年寄りは一人もみませんでした。天気予報の情報でなく自分の体感で判断する、つい最近までそれが当たり前だったように思うのですが……。

 

 NHKのドラマ10「宙(そら)わたる教室」が終わりました。「科学の前ではみな平等」という理想を信じる科学者が定時制高校で起こした科学部を全国大会の入賞校に育て上げる「胸熱」ドラマです。前途を嘱望された若い科学者(藤竹)が主任教授の学歴によって有為の人材を排除する方針に抵抗、恵まれた環境を拒絶して独力で研究は継続する一方、定時制高校の講師を勤めるなかで生徒の幾人かに可能性を見つけ科学部を創設します。十代の女の子と二十代の元ヤンキー、フィリピン系の50代女性と70代の老人というバラバラなメンバーの興味を火星の特殊なクレーター、ランパート・クレーターの再現という目標に集約、各人のこれまでの経歴に根ざした視点と技能を藤竹がそれとなく引き出して実験を繰り返し一応の研究成果を得ます。そこで高校生科学大会に応募するのですが定時制の出場は前例がないと門前払いされます。失望するメンバーを鼓舞して研究をさらにレベルアップ、学会発表の高校部門に挑戦するまでに成長した彼らの研究はめでたく入賞を遂げるというのがあらすじです。

 ドラマのテーマの一つは環境次第で子ども(ドラマではみな成人ですが)の可能性は学校・学歴という枠を飛び越して存在するし開花することができるというもの。もうひとつは組織・制度の硬直化と差別が才能を劣化させたり枯渇させている現状への警鐘です。所得格差が拡大する現状は高等教育の機会不均等をもたらしており、そのことがわが国のイノベーション力劣化の原因となり経済成長を阻害している側面はもはや放置できないくらい緊迫しています。にもかかわらず政治は教育無償化に及び腰です。このままではノーベル賞級の研究は今後出てこないかもしれません。危機的状況です。

 組織・制度の硬直化は国公立大学の独立行政法人化と運営交付金の減額を筆頭に「選択と集中」という美名のもとに一向に改まる気配がありません。公的支出の教育費割合は現在8%ですがこれはOECD加盟国の3番目の低さです。これでは国の成長力の飛躍は望むべくもありません。

 しかしいくらお金をかけても教育システムが現行の「均質の国定教科書による一斉学習」では才能の個性的成長には適していません。ドラマにあったような個人の感性を引き出すような――体で感じる学習方法を創出することが必要なのです。

 いずれにしろ学術会議の会員承認拒否に見るような政治権力の教育への介入は決していい結果を生まないことは明らかです。

 

 今の教育状況の一番の問題点は「教えすぎ」ではないでしょうか。孫はまだ二才半ですが今から塾とか習い事の心配をしている保護者も少なくないといいます。小学校受験の受験勉強はもとより英語、水泳、お絵描き、ピアノ、書道など二つくらいを習うのは当たり前で、学校へ行けば放課後児童館、学習塾、と習い事が普通になります。これでは「習う」ばかり「教えられる」ばかりで「自分で感じる」余裕などほとんどないのではないでしょうか。それで「本当の学び」ができるのでしょうか。

 最近出版された『ひっくり返す人類学(奥野克己著ちくまプリマー新書)』に教育というものを見直すこんな記述があります。

 カナダの狩猟採集民ヘヤー・インディアンには「師弟関係」がありません。したがって「教しえてあげる」「教えてもらう」「誰々から習う」「誰々から教わる」という考え方がないのです。英語を話す若者に「英語は誰にならったの?」と聞くと「自分で覚えた」という答が返ってきます。なんでもがそうで「どのようにしてそれを覚えたのですか?」「どのように〇〇ができるようになったのですか?」と聞くしかなくて答は「自分で覚えた」の一点張りです。そうしたヘヤー・インディアンの文化には「人間が人間に対して、指示・命令できるものではない」という前提が横たわっていて、親といえども子に対して指示したり命令したりすることはできないのです。できるのはただ「守護霊」だけなのです。

 いろんなことをやりながら、考え方を身につけたり、やり方を覚えたりしながら、自分のやり方を発見していくプロセスそのものが、『学ぶ』ということではないでしょうか。

 

 「教えられる」ばかりで「自分で感じる」「自分の体で感じる」力が劣化したら、この「情報過剰時代」にどう対処していくのでしょうか。本能的に(体で)情報を選別する能力を研ぎ澄まさないとAIに「使われる」奴隷に成り下がってしまわないか。そんな恐怖を感じる人がそろそろ出てくるのではないでしょうか。

2024年12月9日月曜日

お手本

  書をはじめて二年になります。本当を言えば「書」などと言える代物ではないのですがとにかく筆をもってひらがなと漢字を毎日書くようになったのですから「八十の手習い」にはちがいありません。「手習い」という言葉はよくできていて文字通りひたすら手を動かしてお手本を「なぞる」「習う」の繰り返しの中で「コツ」を身に着けるのです。私の場合は我流ですから先生はいませんのでがむしゃらにお手本をまねて二年間書きつづけてきて、最近になってタテの一の棒が一番難しいのが分かってきました。トメのタテ棒を半紙一杯に何本も書いて満足いくのがなくて、また紙を取り替えてタテ棒を書く。こんな修行のようなことをするとは思ってもいなかったのですが二年間経って学校やお習字教室の第一過程でやらされるタテ一のトメの練習をして、それが退屈でなく苦痛でもなく何とか上手く書きたいの一心で十分十五分と工夫するのですから「手習い」というものは奥深いと思います。

 これまで何度も挑戦して一度も「やってやろう」という気にならなかった「書」が今度うまくいったのは「お手本」が良かったからだと思います。『くずし字で「百人一首」を楽しむ(中野三敏著角川学芸出版)』と『三体千字文(飯田秋光書高橋書店)』をお手本にしているのですが百人一首をくずし字で読めるようになりたい、読み説けるようになる、くずし字を書きたいの三つを目標にかな文字の手習いをする。これが見事にはまったのです。解読の難しいくずし字を読めるようになりたいという念願が書くことで驚くほど身に着くようになって、百人一首そのものも何度も読み返すうちに和歌の勘所に道すじがついて古今和歌集や山家集などの興味へつながって古文を学ぶ入口になりました。

 『千字文』は中国六世紀梁の武帝が兵士に漢字を覚えさせるために部下の周興嗣に作らせた教則本で体裁は漢詩になっていて一字の重複もなく漢字千字を網羅した驚くべき書物なのです。それを「三体」――楷書、行書、草書の三つの漢字の形でお手本があるのが『三体千字文』です。私は漢字は楷書が一番難しいと思っていて行・草と一緒に楷書を練習すれば慣れるのではないかと考えてこのお手本を選んだのですが飯田秋光さんの字が好きな字ということもあって最初の30字も書かないうちに漢字の面白さに引き込まれました。行と草は勢いで書いていると何となくカッコウがつくので気持ちよく、その流れで楷書を書くと「字」の形がつかめるような感覚を得ました。そんな繰り返しをつづけるうちに楷書にも馴染めるようになってきました。このごろは大きな紙に漢字を力いっぱい書いてみたいという意欲が湧いています。

 

 翻って昨今の「SNS全盛時代」はお手本のない時代です。お手本に頼って生きてきた我々世代は底知れない『不安』を感じています。あの空間で流通している情報は「権威の裏づけのない」「無責任な(匿名性)」ものです。しかも流通量だけは厖大なのに閲覧できる情報は限りなく「狭く」「少ない」のです。そのうえ巨大営利企業が流通を管理しているのです。私たちはこれまで「新聞社(雑誌社)」という権威に選択された情報を相当広範囲に提供されてきました。媒体が紙でしたから貯蔵可能で繰り返し閲覧できました。そのうち電波媒体ができてラジオ・テレビが出現、速報性のある情報が無料で提供されるようになりましたが「テレビ(ラジオ)局」という権威が情報選択を行なっていました。電波情報はタレ流しでしたが紙媒体と補完関係にありましたから情報確認は保証されていました。

 SNS時代になって新聞購読者は激減し雑誌は廃刊が相次ぎました。1世紀近くつづいたラジオ・テレビの電波メディア主体の世論形成時代は令和になってSNSが主たる情報源という大衆が若者層を中心に拡大しつづけています。アメリカのトランプ大統領が象徴的な存在ですが「選挙の予測」を行なう「オールドメディア(旧来の新聞やテレビをそう呼びます)」の予測が事ごとに外れるようになって、オールドメディアは「エスタブリッシュメント(既得権を持った支配層)」に偏ったメディアで一般大衆の意見を反映していないという見方が一般的になりSNSの情報に最も影響を受けて投票を行なう人たちが主流になりつつあります。

 

 お手本のない不安は誰でも持っています。そうなると自分の好きな情報、自分と同じ考えをする人の情報で自分の選択を補強して自信をつけようとするようになります。それでも不安は残ります。そんなとき自分を代弁してくれる強烈な個性を持ったカリスマを無意識に求めるようになります。トランプさんは白人でありながら黒人やヒスパニックに職を奪われたラストベルトの人たちを代弁して「MAGA(メイクアメリカグレイトアゲイン)」と叫んだのです。そしてアメリカの主たる新聞やテレビ局の予想をくつがえして大統領に上りつめたのです。

 SNSの影響はアメリカに限らずフランスでもマクロンさんの政治権力を地に落としめましたし東京都知事選挙では石丸現象を、兵庫県知事選では斎藤さんの再選を演出しました。先の衆議院選挙では自民党を過半数割れに追い込むと同時に国民民主党を3倍の大躍進に導きました。民主主義国といわれる先進国のほとんどが少数与党の不安定政権に追い込まれています。お隣の韓国では尹大統領の「非常戒厳」という信じられない事態まで引き起こしたのです。

 

 「不確かな(権威の裏づけのない)」「無責任な(匿名性)」な情報を個人が信条やイデオロギーではなくその時々の「空気」で選択した結果ですからいつまた別の方向に向かうか制御不能な状況が「今」なのです。「今、ここ、私」はいつでも「漂流」するのです。

 宗教――特にキリスト教のプロテスタンティズムという精神的紐帯を失った資本主義国民主主義国は「金」と「選挙」だけが「お手本」に成り代わってしまっています。どちらも不確かなもので結ばれている「西側先進国」が遅れてきた国の「お手本」になることはありません。BRIKSをはじめ開発途上国の多くはアメリカの「ロシア封鎖」に協力しないのです。

 

 世界の「反アメリカ(西側先進国)」を示す指標の一つが各国の外貨準備高に占めるドルの割合が8割超から6割を切ったことです。トランプさんが大統領になればこの比率はますます低下するにちがいありません。SNS時代にふさわしい「新しい価値観」はいつどの国が提示するのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

2024年12月2日月曜日

想滴々(24.12)

  早いもので今年ももう12月です。今日が誕生日の私は83才で健康寿命(男2.7才)も平均寿命(男81.09才)も超えてしまいましたし父の享年が82才だったのでこれも凌(こ)えることができました。百年時代ですが今のところさし迫って健康に不安を感じていませんのでどこまで行けるのでしょうか。幸い妻が健康ですので有難い限りです。娘たちにはこれといった恵與(けいよ)もできませんでしたがこの齢になって両親そろって恙無く、まあまあ仲良く暮らしていることは彼女たちにとって望外のプレゼントになっているかもしれません。

 年々一年が早く過ぎ去っていくのは変化のない日日を暮らしているからで考えてみればこの一年、昨年と何一つ変わったことのない日常の繰り返しに呆れてしまいます。昨年どころかここ五年、初孫を授かった以外に変化なしと言ってもいい状況がつづいています。ただ健康面では昨年5月のゴールデンウィークに肺炎に罹りましたし今年は7月にとうとう前歯が1本欠けてしまってはじめて「義歯」を入れました。体力の衰えは顕著で毎朝のトレーニングのメニューをこなすのが難しくなっています。9月に膝を傷めて整形外科のお世話になり理学療法士さんから4種類のストレッチを課されていますのでストレッチは10コ以上になり毎朝大変ですがインターバル速歩とラジオ体操を加えた朝トレは健康維持の必須のメニューですから根気よく継続を心掛けています。

 

 何が健康の元になっているかを考えてみると「コラムの連載」が最大の要因のようです。2006年4月13日に始めて今回で986回目ですから18年間半よくぞ続けることができたものです。先輩の関係している業界紙に書いてみるかと誘われて軽い気持ちで引き受けたのがきっかけで、200回ほどつづけて関係は切れたのですが以後はBloggerにひきついで今日に至っています。もうひとつ近くの公園の野球場の管理――といっても朝夕の鍵の開閉だけですが今となっては若い人との交流の唯一のチャンネルになっています。辛いときも務めですからサボることもできずイヤイヤでも朝の決まった時間――今なら7時には解錠に公園へいかざるをえませんから朝トレも休まずできるわけでありがたく感謝しています。なじみの公園仲間もいて彼らおっさんと交わす何気ない会話も生活の潤滑油になっています。コラムも野球場の鍵の開け閉めも先様から頼まれて引き受けたものですがこうした縁に恵まれたことは幸せなことでありました。

 

 書くためには読まねばなりませんから毎年80~100冊近く読んでいます。朝一番は日本語の基礎養成のために漢文と古文を1、2時間、今なら千字文と古事記がテキストです。どちらもしっかりした注釈書を案内にして読んでいますが西郷信綱の「古事記注釈」は詳細で古事記を通して日本文化の古代からの精神的基層を学ぶことができます。あとの3~5時間は専門書と文学を読みますが最新のものは毎日新聞の書評から選びます。専門書は社会科学を中心にたまには科学ものも読んでいます。文学では今年のノーベル文学賞を受賞したハン・ガンの『別れを告げない』が書評にあったので受賞前に読んでいて『四・三事件(1948年に起こった李承晩政権による済州島農民の虐殺事件)』を扱った固いテーマにもかかわらず詩的な文体に透明性があって上質の文学性を感じていたので受賞も当然だと思いました。

 読んで書いて、来年の春ころには目標としていた1000回になりますがそのあとどうするかまだ決めていません。

 

 夏の終わりころ、1000回の目途も立ってあとのことを考えていて、目が弱ったらどうしようという不安を感じました。友人たちの多くは60台半ばころから字が読みづらくなって読書から遠ざかったと言います。そしてその後の暮らし方に悩んでいるようです。大体勉強が好きで、それ以外にこれといって取り柄のない連中ですから押っ取り刀で趣味を持とうとしてもどっぷりつかるほどの趣味も見つけられるず中途半端な、納得のいかない晩年を過ごしているようです。

 字を読む視力と根気・体力が衰えたらどうしよう。今の生活がつづけられなくなる、生活の芯棒となっている読んで書くができなくなる。そのときどうするか。はたと行き詰まりました。多分あと5年も経たないうちにそうなる可能性は高い。充実した晩年が過ごせなくなる。

 

 残された喜びのひとつは孫です。80才にしてようやく授かった孫はまだ2才半、小学校に上がるまではおじいちゃんに懐いてくれるだろうしそれからあとも彼の成長は喜びでありつづけます。もうひとつは「書」です。昨年の正月に思い立って「つづけ字で百人一首を書く」ことをはじめて、最初は筆ペンで書いていたのですが1年も経つとそれでは満足できなくなって今年からはほんものの「筆」で書くようになって、そうなると「漢字」も書きたくなって『三体千字文』をお手本に始めて見るとますますおもしろさ分かって来て今では朝一番のルーティンになっています。書は目が衰えてもつづけられます。やればやるほど深まっていくといいます、これは一生の楽しみです。クラシックとジャズが好きですから音楽も生涯の友です。体が動けるうちはコンサートにも行って生(なま)も楽しみたいものです。

 

 そんな思案をしていてフト西陣にいたころの近所の「ハラのおっさん」が思い浮かびました。隠居して毎日半日は散歩、近所のお宮さんやお寺をめぐって11時ころ路地にあるなじみのおばあさんの家に辿りつく、別に呼びもしないにに2階の窓が開いておばぁちゃん(足が不自由なので)が顔を出す。それから晝まで何を話しているのか確かめたこともありませんが上と下とで会話を楽しむのがおっさんの毎日でした。そんなおっさんは百才になる前日の朝、家人が起こしに行くと事切れていたそうです。大往生です。

 ハラのおっさんのことを考えていると「充実した晩年」などと考えていることがむなしくなってきました。健康に生きること、それ自体が唯一無二のことではないのか、そんな感懐に至りました。

 

 『千字文(小川環樹ほか注解・岩波文庫)』に「古を求めて論を尋ね、慮(りょ)を散じて逍遥す」という辞があります。隠居して要務もなければ昔の賢人の議論を探し求め気持ちもさっぱりとわだかまりもなくのびのびと満足した生活を楽しめ」というのです。

 それもまたいいではないか、そんな思いで思案を止めました。できれば妻もとなりにいてほしい、孫と一緒に。