早いもので今年ももう12月です。今日が誕生日の私は83才で健康寿命(男2.7才)も平均寿命(男81.09才)も超えてしまいましたし父の享年が82才だったのでこれも凌(こ)えることができました。百年時代ですが今のところさし迫って健康に不安を感じていませんのでどこまで行けるのでしょうか。幸い妻が健康ですので有難い限りです。娘たちにはこれといった恵與(けいよ)もできませんでしたがこの齢になって両親そろって恙無く、まあまあ仲良く暮らしていることは彼女たちにとって望外のプレゼントになっているかもしれません。
年々一年が早く過ぎ去っていくのは変化のない日日を暮らしているからで考えてみればこの一年、昨年と何一つ変わったことのない日常の繰り返しに呆れてしまいます。昨年どころかここ五年、初孫を授かった以外に変化なしと言ってもいい状況がつづいています。ただ健康面では昨年5月のゴールデンウィークに肺炎に罹りましたし今年は7月にとうとう前歯が1本欠けてしまってはじめて「義歯」を入れました。体力の衰えは顕著で毎朝のトレーニングのメニューをこなすのが難しくなっています。9月に膝を傷めて整形外科のお世話になり理学療法士さんから4種類のストレッチを課されていますのでストレッチは10コ以上になり毎朝大変ですがインターバル速歩とラジオ体操を加えた朝トレは健康維持の必須のメニューですから根気よく継続を心掛けています。
何が健康の元になっているかを考えてみると「コラムの連載」が最大の要因のようです。2006年4月13日に始めて今回で986回目ですから18年間半よくぞ続けることができたものです。先輩の関係している業界紙に書いてみるかと誘われて軽い気持ちで引き受けたのがきっかけで、200回ほどつづけて関係は切れたのですが以後はBloggerにひきついで今日に至っています。もうひとつ近くの公園の野球場の管理――といっても朝夕の鍵の開閉だけですが今となっては若い人との交流の唯一のチャンネルになっています。辛いときも務めですからサボることもできずイヤイヤでも朝の決まった時間――今なら7時には解錠に公園へいかざるをえませんから朝トレも休まずできるわけでありがたく感謝しています。なじみの公園仲間もいて彼らおっさんと交わす何気ない会話も生活の潤滑油になっています。コラムも野球場の鍵の開け閉めも先様から頼まれて引き受けたものですがこうした縁に恵まれたことは幸せなことでありました。
書くためには読まねばなりませんから毎年80~100冊近く読んでいます。朝一番は日本語の基礎養成のために漢文と古文を1、2時間、今なら千字文と古事記がテキストです。どちらもしっかりした注釈書を案内にして読んでいますが西郷信綱の「古事記注釈」は詳細で古事記を通して日本文化の古代からの精神的基層を学ぶことができます。あとの3~5時間は専門書と文学を読みますが最新のものは毎日新聞の書評から選びます。専門書は社会科学を中心にたまには科学ものも読んでいます。文学では今年のノーベル文学賞を受賞したハン・ガンの『別れを告げない』が書評にあったので受賞前に読んでいて『四・三事件(1948年に起こった李承晩政権による済州島農民の虐殺事件)』を扱った固いテーマにもかかわらず詩的な文体に透明性があって上質の文学性を感じていたので受賞も当然だと思いました。
読んで書いて、来年の春ころには目標としていた1000回になりますがそのあとどうするかまだ決めていません。
夏の終わりころ、1000回の目途も立ってあとのことを考えていて、目が弱ったらどうしようという不安を感じました。友人たちの多くは60台半ばころから字が読みづらくなって読書から遠ざかったと言います。そしてその後の暮らし方に悩んでいるようです。大体勉強が好きで、それ以外にこれといって取り柄のない連中ですから押っ取り刀で趣味を持とうとしてもどっぷりつかるほどの趣味も見つけられるず中途半端な、納得のいかない晩年を過ごしているようです。
字を読む視力と根気・体力が衰えたらどうしよう。今の生活がつづけられなくなる、生活の芯棒となっている読んで書くができなくなる。そのときどうするか。はたと行き詰まりました。多分あと5年も経たないうちにそうなる可能性は高い。充実した晩年が過ごせなくなる。
残された喜びのひとつは孫です。80才にしてようやく授かった孫はまだ2才半、小学校に上がるまではおじいちゃんに懐いてくれるだろうしそれからあとも彼の成長は喜びでありつづけます。もうひとつは「書」です。昨年の正月に思い立って「つづけ字で百人一首を書く」ことをはじめて、最初は筆ペンで書いていたのですが1年も経つとそれでは満足できなくなって今年からはほんものの「筆」で書くようになって、そうなると「漢字」も書きたくなって『三体千字文』をお手本に始めて見るとますますおもしろさ分かって来て今では朝一番のルーティンになっています。書は目が衰えてもつづけられます。やればやるほど深まっていくといいます、これは一生の楽しみです。クラシックとジャズが好きですから音楽も生涯の友です。体が動けるうちはコンサートにも行って生(なま)も楽しみたいものです。
そんな思案をしていてフト西陣にいたころの近所の「ハラのおっさん」が思い浮かびました。隠居して毎日半日は散歩、近所のお宮さんやお寺をめぐって11時ころ路地にあるなじみのおばあさんの家に辿りつく、別に呼びもしないにに2階の窓が開いておばぁちゃん(足が不自由なので)が顔を出す。それから晝まで何を話しているのか確かめたこともありませんが上と下とで会話を楽しむのがおっさんの毎日でした。そんなおっさんは百才になる前日の朝、家人が起こしに行くと事切れていたそうです。大往生です。
ハラのおっさんのことを考えていると「充実した晩年」などと考えていることがむなしくなってきました。健康に生きること、それ自体が唯一無二のことではないのか、そんな感懐に至りました。
『千字文(小川環樹ほか注解・岩波文庫)』に「古を求めて論を尋ね、慮(りょ)を散じて逍遥す」という辞があります。隠居して要務もなければ昔の賢人の議論を探し求め気持ちもさっぱりとわだかまりもなくのびのびと満足した生活を楽しめ」というのです。
それもまたいいではないか、そんな思いで思案を止めました。できれば妻もとなりにいてほしい、孫と一緒に。
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