2024年12月16日月曜日

体で感じる

  先週まで夏日だったのに今朝の最低気温は10度を切る冷たさ、と思う間もなく秋は過ぎて冬に突入。そんな今年の季節感であっという間に冬も本格化、天気予報は寒い寒いを連発、今朝の最低気温は4度ですから冬支度をお忘れなくと脅されて朝トレを怯んでしまいます。風邪もあって1週間休んでしまったせいか太ももの筋肉が少し痩せてきたので思い切って夜明けを待って外へ飛び出してみました。寒さはそれほどでなく公園へインターバル速歩で向かうとうっすらと汗ばむ感じ。そうか風がないのです。陽が昇る前後から2時間ほどは風はほとんどなくむしろ10時ころに気温は10度近くなっても風が強いと寒さを厳しく感じます。

 夏もそうで気温が30度を超す真夏日でも湿気が少ないとサラッとして過ごしやすいことがあります。気温と体感温度は風と湿度の相関関係で相当開きがあって個人差があります、自分の体で感じて判断するのが賢明なのに過剰な天気予報の情報に圧倒されて自分で判断する前に暑いと予報があればエアコンをガンガン効かせる、寒いと脅されて朝トレを休んでしまう。そんな習慣に馴染んでしまっているのが昨今の私たちではないでしょうか。

 今朝の公園には仲間の年寄りは一人もみませんでした。天気予報の情報でなく自分の体感で判断する、つい最近までそれが当たり前だったように思うのですが……。

 

 NHKのドラマ10「宙(そら)わたる教室」が終わりました。「科学の前ではみな平等」という理想を信じる科学者が定時制高校で起こした科学部を全国大会の入賞校に育て上げる「胸熱」ドラマです。前途を嘱望された若い科学者(藤竹)が主任教授の学歴によって有為の人材を排除する方針に抵抗、恵まれた環境を拒絶して独力で研究は継続する一方、定時制高校の講師を勤めるなかで生徒の幾人かに可能性を見つけ科学部を創設します。十代の女の子と二十代の元ヤンキー、フィリピン系の50代女性と70代の老人というバラバラなメンバーの興味を火星の特殊なクレーター、ランパート・クレーターの再現という目標に集約、各人のこれまでの経歴に根ざした視点と技能を藤竹がそれとなく引き出して実験を繰り返し一応の研究成果を得ます。そこで高校生科学大会に応募するのですが定時制の出場は前例がないと門前払いされます。失望するメンバーを鼓舞して研究をさらにレベルアップ、学会発表の高校部門に挑戦するまでに成長した彼らの研究はめでたく入賞を遂げるというのがあらすじです。

 ドラマのテーマの一つは環境次第で子ども(ドラマではみな成人ですが)の可能性は学校・学歴という枠を飛び越して存在するし開花することができるというもの。もうひとつは組織・制度の硬直化と差別が才能を劣化させたり枯渇させている現状への警鐘です。所得格差が拡大する現状は高等教育の機会不均等をもたらしており、そのことがわが国のイノベーション力劣化の原因となり経済成長を阻害している側面はもはや放置できないくらい緊迫しています。にもかかわらず政治は教育無償化に及び腰です。このままではノーベル賞級の研究は今後出てこないかもしれません。危機的状況です。

 組織・制度の硬直化は国公立大学の独立行政法人化と運営交付金の減額を筆頭に「選択と集中」という美名のもとに一向に改まる気配がありません。公的支出の教育費割合は現在8%ですがこれはOECD加盟国の3番目の低さです。これでは国の成長力の飛躍は望むべくもありません。

 しかしいくらお金をかけても教育システムが現行の「均質の国定教科書による一斉学習」では才能の個性的成長には適していません。ドラマにあったような個人の感性を引き出すような――体で感じる学習方法を創出することが必要なのです。

 いずれにしろ学術会議の会員承認拒否に見るような政治権力の教育への介入は決していい結果を生まないことは明らかです。

 

 今の教育状況の一番の問題点は「教えすぎ」ではないでしょうか。孫はまだ二才半ですが今から塾とか習い事の心配をしている保護者も少なくないといいます。小学校受験の受験勉強はもとより英語、水泳、お絵描き、ピアノ、書道など二つくらいを習うのは当たり前で、学校へ行けば放課後児童館、学習塾、と習い事が普通になります。これでは「習う」ばかり「教えられる」ばかりで「自分で感じる」余裕などほとんどないのではないでしょうか。それで「本当の学び」ができるのでしょうか。

 最近出版された『ひっくり返す人類学(奥野克己著ちくまプリマー新書)』に教育というものを見直すこんな記述があります。

 カナダの狩猟採集民ヘヤー・インディアンには「師弟関係」がありません。したがって「教しえてあげる」「教えてもらう」「誰々から習う」「誰々から教わる」という考え方がないのです。英語を話す若者に「英語は誰にならったの?」と聞くと「自分で覚えた」という答が返ってきます。なんでもがそうで「どのようにしてそれを覚えたのですか?」「どのように〇〇ができるようになったのですか?」と聞くしかなくて答は「自分で覚えた」の一点張りです。そうしたヘヤー・インディアンの文化には「人間が人間に対して、指示・命令できるものではない」という前提が横たわっていて、親といえども子に対して指示したり命令したりすることはできないのです。できるのはただ「守護霊」だけなのです。

 いろんなことをやりながら、考え方を身につけたり、やり方を覚えたりしながら、自分のやり方を発見していくプロセスそのものが、『学ぶ』ということではないでしょうか。

 

 「教えられる」ばかりで「自分で感じる」「自分の体で感じる」力が劣化したら、この「情報過剰時代」にどう対処していくのでしょうか。本能的に(体で)情報を選別する能力を研ぎ澄まさないとAIに「使われる」奴隷に成り下がってしまわないか。そんな恐怖を感じる人がそろそろ出てくるのではないでしょうか。

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