2025年1月27日月曜日

中居、そしてトランプ

  中居問題について一言。中居正広の芸能界引退という事態にまで進展したこの問題に関する各局報道やニュースショーのコメンテーターのすべてが口にする「何があったのか、事実が何なのか明らかでない……」というコメントの嘘っぽさにヘキエキするとともになんと想像力のない連中なのかと呆れ果ててしまいます。『9千万円の示談金』ですよ!わが国史上破格の示談金を支払わなければ示談が成立しなかったという『事実』はこれが通常の「不同意強制性交(これを一般には『強姦』というのです)」でなかったことを明確に示しているではないですか。被害者女性を異常な暴力で虐待したか、人権蹂躙が度を越したものであったので被害者の精神に回復不能なダメージを与えたか、あるいは被害者女性の父(母や親戚など)の社会的地位が無視しえないほど高かった(テレビの場合スポンサー関係の縁故入社は少なくありません)かのいづれかだろうということは容易に推定できます。具体的に「これだ」と特定することはできませんが中居正広の不同意性向が尋常でなかったことだけは間違いないはずです、9千万円なのですから。それなのにフジは中居正広に対して何ら糾弾もペナルティも課さず番組を継続、出演させつづけたのですからフジのガバナンスのデタラメさは酷いものなのです。

 もうひとつメディアもコメンテーターも、そして何より取材記者の能力劣化を嘆かざるを得ないことがあります。それはフジの港社長も関テレの大多社長も弁明した「とにかく被害女性の心のケアとプライバシー保護を第一にしました」という言葉です。だれひとり糾弾しませんでしたが「それは具体的に何をしたのですか」ということです。想像できるのは箝口令をしいて関係者以外にファクトが拡大するのを防ぐことと被害者にことを大きくしないように懇願すること、いや権力的に強制したかもしれません。それと形ばかりの「心のケア」くらいしか思いつきません。これが「被害者保護」と言えるでしょうか、中居保護と組織防衛以外に何もしていないと同じではないでしょうか。とにかく最近のテレビの(ひょっとしたら新聞も)記者の劣化は酷いものです。

 これは私の憶測ですが、フジテレビの芸能部門にあると言われている有力芸人やタレント、役者に対する女性(アナウンサー、タレントなど)の性的接待の提供(週刊誌はこれを「性的上納とか貢物」という言葉を使っていたようですがテレビ局の社長ともある人がそれをそのまま「上納」と臆面もなく使用するところに文化人、知識人としての矜持のなさを感じます。彼らにその自覚があればのことですが)という仕組みはいつできたのかという問題です。フジは「エンタメのフジ」「ドラマのフジ」として民放界に確固たる地位を築きました。その立役者が「エンタメの港、ドラマの大多」であることは周知の事実です。そのふたりが現在のフジの社長であり関テレの社長なのですから今回の記者会見の「惨状」は必然なのです。

 山一証券の廃業は想像外の出来事でした。フジが倒産するなど想像もできませんがあの山一でさえ倒産したのですから先行は限りなく不透明です。

 

 そして「トランプ」です。今のトランプのアメリカを見ていると、斜陽の老舗大企業がカリスマ創業者を担ぎだして再建を果たそうとして敢え無く市場から消え去っていった多くの例を思い出します。それは彼トランプがいみじくも「MAGA」「Make America Great Again」――アメリカをもう一度過去の偉大なアメリカに、と言っているではありませんか。

 冷戦が終結して資本主義と民主主義が唯一の価値として、イデオロギーとして生き残りました。そしてそれがグローバル化されたのです。ここにおいて資本主義も民主主義も質的転換をしなければならなかったのですが指導者たちはそれに気づきませんでした。学者も知識人もジャーナリズムも、当然のことながら一般市民も。

 近代以降の世界は「選ばれた」先進国の時代でした。圧倒的な経済力を基礎として軍事力と政治力を駆使して文化的(言語的)にも世界を制覇します。宗教と文化価値の圧しつけと資源と労働力(奴隷や低賃金の労働力)の搾取――植民地主義の跋扈として全世界を分割、搾取し尽くしたのです。第二次世界大戦、冷戦を経て今に至るのですがグローバル化という「新次元」に突入したことを「自覚的に」捉えて変化を読み取ろうとした賢人は現れませんでした。過去の延長線上にこの大変化を接続させようとしたのです。今の混乱――格差の拡大と分断の原因はここにあります。

 

 トランプは「アメリカファースト」を唱えていますがもともとモンロー主義の過去からこの系譜がアメリカの本質なのです。資源も労働力も(移民ウェルカムですしもともと移民の国ですから)豊富ですから自己完結が可能な国で、世界一の超大国になったのは第二次世界大戦まで国土が戦場になることがなかったアドバンテージが大きく影響しています。世界が戦後復興に国力を消費せざるを得ないなかで唯一無傷な経済力を駆使して世界に君臨できたのです。産業資本主義の勃興期から最盛期までアメリカは世界最大のGDP、それもけた外れの差をつけて世界を支配したのです。やがて再建した先進国経済は以前とは比較にならない「生産力」を技術力の進歩によって獲得しましたから旧の先進国だけの市場では当然「需要不足」に見舞われます。市場拡大にはグローバル化が自然の流れでした。グロ-バル化の激化は限りない価格競争を強いますから低賃金を求めて発展途上国(中国をはじめ)をサプライチェーンに組み入れざるを得ない状況に追い込みます。現地生産の流れは国内製造業の空洞化を招きます。ラストベルトは必然だったのです。

 今のアメリカ(世界)の消費生活は「グローバル化市場」を前提とした「市場価格」で均衡する供給体制で成立しています。トランプがゴリ押しで関税障壁を高めようと不法移民国外追放を強硬に進めようとそれは一時のことでアメリカ経済(世界経済)は最適状態を求めて元の均衡状態に復帰します。アメリカ市民はインフレと高い失業率に苦しめられて4年間のトランプ政治は終焉することでしょう。

 トランプは過去のカリスマ創業者ですらないのです。

 

 たった4年のことです。あっという間です。

 

 

2025年1月20日月曜日

テレビは大丈夫か

  中居問題に関するフジテレビ社長の記者会見がテレビ締め出し(撮影不可)と聞いて我が耳を疑いました。テレビ局がテレビを「報道機関」として認めないなどということが日本の全国ネットの大テレビ局社長の判断というのは正気の沙汰とは思えません。折りしも東京都知事選や先の衆議院議員選挙で「オールドメディア」とその存在意義を否定された直後というのに危機意識が微塵も感じられません。昔ある総理の退任会見で「テレビは出て行ってもらいたい」と言い放たれて毅然と席をけった当時のテレビマンの矜持のかけらもないフジテレビ社長の体たらくに絶望的な「敗者」の姿を見た思いです。

 

 それにしても今回もまた「外圧」があってはじめて事の重大さを認識するという悪弊の繰り返しでした。ジャニーズ問題がBBCの告発報道が引き金になって長年タブー視されてきたジャニー喜多川の性加害問題を日本のメディアも報道するようになり国会でも問題視されてようやく解決への道すじがつけられたように、今回もフジテレビの大株主であるアメリカ投資ファンド「ダルトン・インベストメンツ」の企業統治に対する欠陥を指摘されてようやく記者会見を開くに追い込まれたフジのあり様はわが国メディアに共通するジャーナリズム精神不在の企業体質の露呈でした。そもそもわが国には「記者クラブ」という権力の「提灯記事承り」制度があり政府や行政のニュースリリースの垂れ流しが平然と行われています。外国から情報開示の不平等・不公正を指摘されているにもかかわらず暗然と制度は存続しつづけているのです。こうした権力との癒着を決然と断ち切らないかぎり「大本営発表」の有効性は依然と存在しつづけることでしょう。

 

 しかしジャニー、松本、中居とつづくわが国エンタメ界の「性に関する暗闇」はどこまで醜悪で底深い病巣なのでしょうか。売れっ子、稼ぎ頭を「奉る」企業体質と女性の「人権」を蹂躙して権力者への「貢物」とすることを当然視する「女郎屋根性」がこの情報化時代になっても先端と言われている業界に隠然と残っているのはなんとも情けないことです。芸能事務所というシステム、「第四の権力」と言われる権力を有しているにもかかわらず情報産業は「中小企業」であるという資本と経営の「脆弱性」、大衆の情報リテラシーの未熟さ、などいろいろ原因は考えられますがひとつの見方は「未熟な人間」に「莫大なお金と権力」を持たせる危険性です。

 大谷翔平選手の通訳だった水原一平が窃盗・詐欺事件を起こしましたが普通の人間が数十億円というお金のフリーアクセスの環境に置かれたら変な気を起こしてもおかしくない一面はあると思います。それが自分のお金、自分が自由にできる権力、そしてそれに平伏す(ひれふす)取り巻き、これだけの条件がそろえば大抵の人間は正常な感覚を狂わすにちがいありません。これは人間の弱さとして認めざるを得ない側面もありそれを前提に「管理・統治システム」を築くべきなのです。最近はやりの「第三者委員会」のような組織をつくるとともに公益通報者保護制度とも連携して「組織防衛」の一組織としてビルトインするべきなのです。

 これに関連して三菱UFJ銀行の貸金庫事件は象徴的です。一般職で入行した女性が総合職に昇格ししかも支店長代理にまで上り詰めるなど稀有な例です(現在は状況が変わっていると思いますが)。それが貸金庫という「莫大なお金」にフリーアクセスになったのですから起こるべくして起こった事件です。問題は頭取が報酬減額という程度の事件とみていることです。私はこれは頭取辞任が当然と考えています。今や都市銀行は大企業と富裕層が主要顧客です。大企業は投資は豊富な内部留保(自己資金)で行いますから運転資金が主な資金需要になっており富裕層の拡大と囲い込みが戦略分野になっています。貸金庫はその重要な囲い込み手段です。公言は憚りますが富裕層には税金逃れという選択肢志向もあります(タックスヘブンへの資金移動を利用する層がどれほどいるのでしょうか)。彼らにとって貸金庫は魅力的ですからこれが信用できないとなれば銀行を選ぶ根拠が崩れます(金融機関は他にも多くあります)。自行のみならず同業他社への影響も甚大でしょう。もし頭取が引責辞任すれば「危機がチャンス」になったかもしれませんが今回の対処の仕方は致命的だと思います。

 

 それにしても今回の中居騒動はどうして「公益通報者保護制度」の側面からマスコミは論じないのでしょうか。被害者は内部の女子アナに相談したと報じられています。それが「公益通報者保護制度」に連携しなかったことが事件の隠蔽につながり問題を複雑にしたのです。フジテレビに制度がなかったわけではないようですから運用に関して当事者も周囲の人たちも、会社さえも認識不足だったのでしょう。しかしほんのすぐ前まで兵庫県知事のハラスメントと公益通報者保護問題に関して喧しく論じていたのに中居問題にこの視点を当てようとするメディアは今のところ皆無です。

 こうしたところにわが国メディアの「浅薄さ」があるのではないでしょうか。事件ごと問題ごとにブツブツと報道が途切れていてその底に流れている社会全体の傾向や志向のようなものを明らかにしようという姿勢がほとんどないのです。兵庫県の問題も中居問題もそこにあるのは「人権意識」であり「ジェンダー差別」です。それがひょっとしたらわが国最大の問題である「少子化」につながっているかもしれないなどという問題意識はまったくうかがえません。そしてそれはわが国教育制度の「知識偏重」にも、リベラルアーツ軽視にも遠因をみるのですがいかがお考えでしょうか。

 

 ジャニー、松本、中居。エンターテイメント――お笑いに「権威」は邪魔なのです。

 

 

 

 

2025年1月13日月曜日

自然死の復権

  今年年賀状をくれた同輩方が一様に我が身の病を託(かこ)っていたのにはおどろきました。考えてみれば83才という年齢は世間的にはそんなものでそれでも寝たきりにならず曲がりなりにも日常生活をまっとうしているのは喜ばしいことです。病気持ちということはそれだけ「生命の限界値」が低いことになり「死に方」をそろそろ現実問題として考えるべきなのでしょうか。ところがこれが厄介なのです。(以下は『自然死(老衰)で逝くということ』三浦耕吉郎著新曜社を参考にしています

 

 死を考えるときいつも「ハラのおっさん」を思いだします。100歳の誕生日の前日家族が起こしに行くと昨日までぴんぴんしていたのに安らかに息を引き取っていたという奇跡のような死に方をした人です。それなのにその後の成り行きは警察が来て事情聴取を受け事件性がないことが立証されてから「死体検案書」という何とも禍々しい文書の発行を受けたのです。埋葬等のために必要な「死亡診断書」に代わるものなのですが折角大往生した父(祖父)を穏やかに送る雰囲気でなかったとご家族が嘆いていたことが印象に残っています。

 現在ではこのような死に方――自然死は稀有な例で病院や施設での死が一般的です。そして「終末期においてもあくまで治療」が優先され「延命治療による身体的治療によって尊厳を奪われた」死に方を強制されるのです。

 その一方で臨床的には、「適切な診断・治療が行なわれずに老衰と診断される可能性」や、「本人のQOL・家族の意向を考えれば老衰と診断されるべきであったにもかかわらず、過剰な検査・治療が行われ、病死と診断されている可能性」のあることはあまり知られていません。

 

 こうした現状に疑問を抱きながら現場で苦悩している医師や看護師がこんな述懐をしています。「医者も介護者もそうだけど、やっぱり(これまで)、その、生かすケアしか勉強、教育してないから……。そうじゃないんだよね」って。(略)(自分も)生かす看護の勉強をしてきてるから……。たとえば、できなくなった、(じゃあ、まだある)残存機能を生かそうって、できるだけ歩けるように、できるだけ食べれるように……。で、状態が悪くなってもできるだけどうにか食べないかっていうふうに努力したり……。どうにか歩けないかとか、どうにかトイレで排せつできないかって一所懸命考えようとするんだけど……。」

 

 せめて最期は自分の選択で死に方を決めたいという考えで「尊厳死」を登録(日本尊厳死協会)する人が増えています。尊厳死とは「延命治療による身体的治療によって尊厳を奪われた患者の人たちが、せめて死期を自分で選ぶことによって尊厳を取り戻そうとする」死に方です。

 しかし病院や施設でなく、日常的なケア以外医療的処置は何もしない、人の気配や台所の音や料理の匂いといった生活感があふれる雰囲気の〈ニギヤカさ〉。そうしたニギヤカさを居室に居ながらにして感じつつ最期のときを穏やかに、従容として迎えたい。終末期における〈尊厳ある生〉であり、〈充実した生〉、そんな選択がどうして行えないのでしょうか。

 これは医療と介護の側からいえば、終末期における〈医療との距離化〉を前提として、医療的介入を必要最低限に留めることをめざした、介護と医療との協同の実現にほかなりません。

 自然死で逝くということは、逝く側にとっては、〈医療との距離化〉によって終末期における入院、検査、治療といった過剰な負担を避けられるという点で〈楽な最期(往生)〉をもたらすと同時に、それを見守る(ケアする、介護する、看護する)側にとっても、(略)最後の最後まで逝く人の生命力との深い交感を体験することを通じてある種の癒しに達することになるのではないでしょうか。

 

 厚生労働省は2007年(平成19年)「終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン」を制定しましたが、しかしそれは医療事故の責任の所在をできるだけ医療側が被ることがないように導こうとしているように受け取れるものになっています。「私たちが今おこなうべきは、いたずらに「死の自己決定権」の法的な確立をめざすことではなく、むしろ、「みずからの死の時期を自己決定する必要のない」ような医療のあり方を模索することだといえよう」と三浦さんは結論づけています。

 

 戦後80年経って豊かになり高度情報化社会も実現されて個人情報の保護される度合いも高まった一方で過剰な管理社会になったように感じます。人の死が家族や友人のものでなく、警察や医療機関の管理下に置かれていることにさみしさを感じるのは齢のせいでしょうか。

 

 なおこの『自然死(老衰)で逝くということ』に気にかかる一節があったので文末に記しておきます。

 「腹水を抜くというのは、血液を抜くにほぼ等しい。終末期こそアルブミンを維持しなければいけないのに、腹水・胸水を抜いたら貴重なアルブミン成分をみすみす体外に逃がすことになる。(略)もし腹水や胸水が苦しくて食べられないのだとしたら、人生の終末段階においてはまず待つこと。生きているだけで1日1㍑の水を使うのだから、待ちさえすれば1日1㍑ずつ体内から確実に減っていく。待つとともに利尿剤を使えば、腹水や胸水は人工的に抜く必要はほとんどないはずだ。」

 

 

 

 

 

 

 

2025年1月6日月曜日

樹木更新

  そっと倒木の上の一尺ばかりのまだごく若い木を、こころみにゆすってみた。(略)亡躯(むくろ)のほうへも遠慮がちに手をおいてみる。そのつめたさ、その水積(みず)きかた。前日来の雨もあろうが、ぐっしょりの濡れびたし。しかしじかに木のからだにふれたのではない。木の肌の上は苔の衣で満遍なく厚く被われてある。自然の着せた屍衣(きょうかたびら)という感じ。多少怯じる気を敢えておさえて、両手の指先に苔をおしのけてみる。苔の下もぐしょぐしょ。茶褐色の、もろけた、こなごなした細片が手につく。これが元の樹皮だ。もっと掻き分ける。その下はややかたい。が、爪をたてれば部分により、たやすく許すところがある。腐食の度が一様でないらしい。性を失いかけているところをこじる。その腐れはわずかなあらがいの後に、縦に一寸ほどむしりとれてきた。縦、つまり根元から梢にかけてむしれたのである。指の間のそれは殆ど崩れて、木片とはいえぬボロでしかなかったが、いとしさ限りないものあった。すでに性を失うほどにまで腐っていながら、なおかつ、木は横には裂けにくいという本性を残していた。

 

 明けましておめでとうございます。冒頭から長い引用をしましたがこれは年末に読んだ『木(幸田文著・新潮文庫)』の「えぞ松の更新」からの抜粋です。読んでいていとしく切ない「老い」を感じ心に沁みました。とりわけ「すでに性を失うほどにまで腐っていながら、なおかつ……」の件はキツイですね。

 ノホホンといつのまにか83才もの馬齢を重ねてきましたが昨年ふと「老い先」を数えることがありました。80才にして授かった孫の成長の行き方に思いを馳せ、小学校に上がるまで見てやれるだろうかと数えると「86才」、これは大丈夫だろう。中学、高校の先に「成人」に思いを遣ると「98才」、これはこれは。はじめて寿命が身近に迫りました、この道のりはおぼろげです。

 12月、内科整形眼科歯科を受診しました。内科は定期検診と高血圧の薬をもらうため、整形は7月に傷めた膝の完治の確認。眼科と歯科は4カ月に一度の定期検診、すべてに「良」を得てつつがなく2024年を過ごせそうと安心を得ました。しかし老いは確実に我が身を侵食しておりたとえばバランス感覚などはもう劣化の一途です。免許を返納して5年近場はもっぱら自転車がアシですが、交差点で信号待ちのとき片足着いて停まろうとするとなぜかバランスが崩れてアレヨアレヨという間にコケてしまいました。まるでスローモーションのように、ここで踏ん張らなければと分かっていても制御不能になってしまう。情けないがこれが83才の実体です。

 思い知らなければならないのは90才だとか100才などという「超高齢医療」はまだ発展途上ですから診断がいい結果だとしても必ずしも保証の限りではありません。そもそもこんなに長寿を経験した人類は歴史上ないのですから「生き方」も「健康法」も当事者のわれわれが手さぐりでさがすしかないのです、医師はその手助けをしてくれる存在、そう位置づけるしかないのです。一応の安心を得たとしても、これまでのように朝起きたらどこも悪くない、痛いところも不具合なところもないなどということはありませんから、といって「病患」ではないのですから医師を頼ることはできません。自分流の対処法を考え出すしかないのです。そしてたいがいの年寄りは自分流をもっています。それは「生き方」も一緒でアリストテレスもデカルトも70才にもならないうちに死んでいますから彼らに今の私たちの生き方をアドバイスできるはずもないのです。それを養老先生や佐藤女史の著作に求めても、あんな恵まれた来し方をした人の「考え方」や「生き方」を取り入れできるはずもなく、羨ましい思いをして我が身のあわれをなげくばかりです。

 

 私は毎朝仏壇のお花とお水の替えをしてから念仏と般若心経を唱えます。大日如来様のお顔を夢想してから先祖と話をします。昨日どんなに嫌なことがあっても、妻と諍いがあっても先祖に話すとすーっと心が整います。先行きの相談なども言葉にすると迷いがほどけますから不思議です。もちろんこれまでの経験や学びがあってのことですが(そのうちに養老先生や佐藤女史も混じっていてもいいのですが)結局は自分流に解決を導く以外にないのです、そんなとき先祖との「心の通い」は心強いものです。墓じまいとか無葬時代とかが昨今ですが「先祖」や墓・仏壇などの装置を深い考えもなく一時の便利や時流で粗末に扱うと何年か先、50年ほど経って「回帰」することがあるかもしれませんよ。

 

 冒頭の「樹木更新」とは次のようなことをいいます(同書からの引用)。

 北海道の自然林では、えぞ松は倒木の上に育つ。むろん林の中のえぞ松が年々地上におくりつける種の数は、かず知れず沢山なものである。が、北海道の自然はきびしい。発芽はしても育たない。しかし、倒木のうえに着床発芽したものは、しあわせなのだ。生育にらくな条件がかなえられているからだ。(略)樹木の上はせまい。弱いものは負かされて消えることになる。きびしい条件に適応し得た、真に強く、そして幸運なものわずか何本かが、やっと生き続けることを許されて、現在三百年四百年の成長をとげているものもある。それらは一本の倒木のうえに生きてきたのだから、整然と行儀よく、一列一直線にならんで立っている。

 

 先祖から私に、そして子へ孫へ生命が継承されてきました。それは人類も自然も同じです。そんな生命の不思議に心揺さぶられるこの頃。そして平均寿命も超えた晩年の2025年の期待と自戒をこめてこんな辞で年初のコラムを締めたいと思います。

 後世、畏る可し。焉(いずく)んぞ来者(らいしゃ)の今に如かざるを知らんや(『論語』子罕より)。(年少の者(の未来)こそ誠に畏敬すべきである。未来の人間が、どうして今の人間に劣ると分かるのか)

 今年が皆さまにとって良い年でありますように。