そっと倒木の上の一尺ばかりのまだごく若い木を、こころみにゆすってみた。(略)亡躯(むくろ)のほうへも遠慮がちに手をおいてみる。そのつめたさ、その水積(みず)きかた。前日来の雨もあろうが、ぐっしょりの濡れびたし。しかしじかに木のからだにふれたのではない。木の肌の上は苔の衣で満遍なく厚く被われてある。自然の着せた屍衣(きょうかたびら)という感じ。多少怯じる気を敢えておさえて、両手の指先に苔をおしのけてみる。苔の下もぐしょぐしょ。茶褐色の、もろけた、こなごなした細片が手につく。これが元の樹皮だ。もっと掻き分ける。その下はややかたい。が、爪をたてれば部分により、たやすく許すところがある。腐食の度が一様でないらしい。性を失いかけているところをこじる。その腐れはわずかなあらがいの後に、縦に一寸ほどむしりとれてきた。縦、つまり根元から梢にかけてむしれたのである。指の間のそれは殆ど崩れて、木片とはいえぬボロでしかなかったが、いとしさ限りないものであった。すでに性を失うほどにまで腐っていながら、なおかつ、木は横には裂けにくいという本性を残していた。
明けましておめでとうございます。冒頭から長い引用をしましたがこれは年末に読んだ『木(幸田文著・新潮文庫)』の「えぞ松の更新」からの抜粋です。読んでいていとしく切ない「老い」を感じ心に沁みました。とりわけ「すでに性を失うほどにまで腐っていながら、なおかつ……」の件はキツイですね。
ノホホンといつのまにか83才もの馬齢を重ねてきましたが昨年ふと「老い先」を数えることがありました。80才にして授かった孫の成長の行き方に思いを馳せ、小学校に上がるまで見てやれるだろうかと数えると「86才」、これは大丈夫だろう。中学、高校の先に「成人」に思いを遣ると「98才」、これはこれは。はじめて寿命が身近に迫りました、この道のりはおぼろげです。
12月、内科整形眼科歯科を受診しました。内科は定期検診と高血圧の薬をもらうため、整形は7月に傷めた膝の完治の確認。眼科と歯科は4カ月に一度の定期検診、すべてに「良」を得てつつがなく2024年を過ごせそうと安心を得ました。しかし老いは確実に我が身を侵食しておりたとえばバランス感覚などはもう劣化の一途です。免許を返納して5年近場はもっぱら自転車がアシですが、交差点で信号待ちのとき片足着いて停まろうとするとなぜかバランスが崩れてアレヨアレヨという間にコケてしまいました。まるでスローモーションのように、ここで踏ん張らなければと分かっていても制御不能になってしまう。情けないがこれが83才の実体です。
思い知らなければならないのは90才だとか100才などという「超高齢医療」はまだ発展途上ですから診断がいい結果だとしても必ずしも保証の限りではありません。そもそもこんなに長寿を経験した人類は歴史上ないのですから「生き方」も「健康法」も当事者のわれわれが手さぐりでさがすしかないのです、医師はその手助けをしてくれる存在、そう位置づけるしかないのです。一応の安心を得たとしても、これまでのように朝起きたらどこも悪くない、痛いところも不具合なところもないなどということはありませんから、といって「病患」ではないのですから医師を頼ることはできません。自分流の対処法を考え出すしかないのです。そしてたいがいの年寄りは自分流をもっています。それは「生き方」も一緒でアリストテレスもデカルトも70才にもならないうちに死んでいますから彼らに今の私たちの生き方をアドバイスできるはずもないのです。それを養老先生や佐藤女史の著作に求めても、あんな恵まれた来し方をした人の「考え方」や「生き方」を取り入れできるはずもなく、羨ましい思いをして我が身のあわれをなげくばかりです。
私は毎朝仏壇のお花とお水の替えをしてから念仏と般若心経を唱えます。大日如来様のお顔を夢想してから先祖と話をします。昨日どんなに嫌なことがあっても、妻と諍いがあっても先祖に話すとすーっと心が整います。先行きの相談なども言葉にすると迷いがほどけますから不思議です。もちろんこれまでの経験や学びがあってのことですが(そのうちに養老先生や佐藤女史も混じっていてもいいのですが)結局は自分流に解決を導く以外にないのです、そんなとき先祖との「心の通い」は心強いものです。墓じまいとか無葬時代とかが昨今ですが「先祖」や墓・仏壇などの装置を深い考えもなく一時の便利や時流で粗末に扱うと何年か先、50年ほど経って「回帰」することがあるかもしれませんよ。
冒頭の「樹木更新」とは次のようなことをいいます(同書からの引用)。
北海道の自然林では、えぞ松は倒木の上に育つ。むろん林の中のえぞ松が年々地上におくりつける種の数は、かず知れず沢山なものである。が、北海道の自然はきびしい。発芽はしても育たない。しかし、倒木のうえに着床発芽したものは、しあわせなのだ。生育にらくな条件がかなえられているからだ。(略)樹木の上はせまい。弱いものは負かされて消えることになる。きびしい条件に適応し得た、真に強く、そして幸運なものわずか何本かが、やっと生き続けることを許されて、現在三百年四百年の成長をとげているものもある。それらは一本の倒木のうえに生きてきたのだから、整然と行儀よく、一列一直線にならんで立っている。
先祖から私に、そして子へ孫へ生命が継承されてきました。それは人類も自然も同じです。そんな生命の不思議に心揺さぶられるこの頃。そして平均寿命も超えた晩年の2025年の期待と自戒をこめてこんな辞で年初のコラムを締めたいと思います。
後世、畏る可し。焉(いずく)んぞ来者(らいしゃ)の今に如かざるを知らんや(『論語』子罕より)。(年少の者(の未来)こそ誠に畏敬すべきである。未来の人間が、どうして今の人間に劣ると分かるのか)
今年が皆さまにとって良い年でありますように。
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