今年年賀状をくれた同輩方が一様に我が身の病を託(かこ)っていたのにはおどろきました。考えてみれば83才という年齢は世間的にはそんなものでそれでも寝たきりにならず曲がりなりにも日常生活をまっとうしているのは喜ばしいことです。病気持ちということはそれだけ「生命の限界値」が低いことになり「死に方」をそろそろ現実問題として考えるべきなのでしょうか。ところがこれが厄介なのです。(以下は『自然死(老衰)で逝くということ』三浦耕吉郎著新曜社を参考にしています)
死を考えるときいつも「ハラのおっさん」を思いだします。100歳の誕生日の前日家族が起こしに行くと昨日までぴんぴんしていたのに安らかに息を引き取っていたという奇跡のような死に方をした人です。それなのにその後の成り行きは警察が来て事情聴取を受け事件性がないことが立証されてから「死体検案書」という何とも禍々しい文書の発行を受けたのです。埋葬等のために必要な「死亡診断書」に代わるものなのですが折角大往生した父(祖父)を穏やかに送る雰囲気でなかったとご家族が嘆いていたことが印象に残っています。
現在ではこのような死に方――自然死は稀有な例で病院や施設での死が一般的です。そして「終末期においてもあくまで治療」が優先され「延命治療による身体的治療によって尊厳を奪われた」死に方を強制されるのです。
その一方で臨床的には、「適切な診断・治療が行なわれずに老衰と診断される可能性」や、「本人のQOL・家族の意向を考えれば老衰と診断されるべきであったにもかかわらず、過剰な検査・治療が行われ、病死と診断されている可能性」のあることはあまり知られていません。
こうした現状に疑問を抱きながら現場で苦悩している医師や看護師がこんな述懐をしています。「医者も介護者もそうだけど、やっぱり(これまで)、その、生かすケアしか勉強、教育してないから……。そうじゃないんだよね」って。(略)(自分も)生かす看護の勉強をしてきてるから……。たとえば、できなくなった、(じゃあ、まだある)残存機能を生かそうって、できるだけ歩けるように、できるだけ食べれるように……。で、状態が悪くなってもできるだけどうにか食べないかっていうふうに努力したり……。どうにか歩けないかとか、どうにかトイレで排せつできないかって一所懸命考えようとするんだけど……。」
せめて最期は自分の選択で死に方を決めたいという考えで「尊厳死」を登録(日本尊厳死協会)する人が増えています。尊厳死とは「延命治療による身体的治療によって尊厳を奪われた患者の人たちが、せめて死期を自分で選ぶことによって尊厳を取り戻そうとする」死に方です。
しかし病院や施設でなく、日常的なケア以外医療的処置は何もしない、人の気配や台所の音や料理の匂いといった生活感があふれる雰囲気の〈ニギヤカさ〉。そうしたニギヤカさを居室に居ながらにして感じつつ最期のときを穏やかに、従容として迎えたい。終末期における〈尊厳ある生〉であり、〈充実した生〉、そんな選択がどうして行えないのでしょうか。
これは医療と介護の側からいえば、終末期における〈医療との距離化〉を前提として、医療的介入を必要最低限に留めることをめざした、介護と医療との協同の実現にほかなりません。
自然死で逝くということは、逝く側にとっては、〈医療との距離化〉によって終末期における入院、検査、治療といった過剰な負担を避けられるという点で〈楽な最期(往生)〉をもたらすと同時に、それを見守る(ケアする、介護する、看護する)側にとっても、(略)最後の最後まで逝く人の生命力との深い交感を体験することを通じてある種の癒しに達することになるのではないでしょうか。
厚生労働省は2007年(平成19年)「終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン」を制定しましたが、しかしそれは医療事故の責任の所在をできるだけ医療側が被ることがないように導こうとしているように受け取れるものになっています。「私たちが今おこなうべきは、いたずらに「死の自己決定権」の法的な確立をめざすことではなく、むしろ、「みずからの死の時期を自己決定する必要のない」ような医療のあり方を模索することだといえよう」と三浦さんは結論づけています。
戦後80年経って豊かになり高度情報化社会も実現されて個人情報の保護される度合いも高まった一方で過剰な管理社会になったように感じます。人の死が家族や友人のものでなく、警察や医療機関の管理下に置かれていることにさみしさを感じるのは齢のせいでしょうか。
なおこの『自然死(老衰)で逝くということ』に気にかかる一節があったので文末に記しておきます。
「腹水を抜くというのは、血液を抜くにほぼ等しい。終末期こそアルブミンを維持しなければいけないのに、腹水・胸水を抜いたら貴重なアルブミン成分をみすみす体外に逃がすことになる。(略)もし腹水や胸水が苦しくて食べられないのだとしたら、人生の終末段階においてはまず待つこと。生きているだけで1日1㍑の水を使うのだから、待ちさえすれば1日1㍑ずつ体内から確実に減っていく。待つとともに利尿剤を使えば、腹水や胸水は人工的に抜く必要はほとんどないはずだ。」
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