2025年2月24日月曜日

おもちゃがあぶない

  80才にして初孫を授かるという僥倖に恵まれて彼のまぶしいばかりの成長と急激な老いに見舞われる我が身との余りの落差に呆れるしかありません。80才というのはまぎれもなく人間の肉体の転換点であらゆる機能が衰えどんなに抵抗しても一段づつ、ハッキリと老いていくのをどうすることもできません。ところが彼はわずか十日も見ないと驚くべき成長を遂げていて、もどかしかったおしゃべりに論理が通るようになったり走るスピードがおばあちゃんが追いつけないほどにアップしていたりと圧倒される2才10ヶ月です。

 

 おもちゃと能動的に関わりだしたのはヨチヨチ歩きのころで、おじゃみと太鼓がお気に入りでした。おじゃみは最初3個で遊んでいましたがのちに6個になるほど遊びが広がったのは意外でした。それは太鼓も同様で、おもちゃ売り場では「3才~」のシールが貼ってありましたが与えると自分で遊びをつくりだして、特にバチは今でもいろんな用途に使っています。鬼のツノだったりロボットの足に見立てたりと。

 孫に大きな影響を与えたはじめてのおもちゃは「バイキンマン」のぬいぐるみでした。2才になる3ヶ月ほど前にやっとテレビが解禁になって「アンパンマン」にどはまりして、なぜかバイキンマンが大のお気に入りになりました。そして2才の誕生祝いに母親からもらったバイキンマンのぬいぐるみがそれまでの強度の「人見知り」を一挙に解消したのです。思うに、母親との「一体感」――母体との一体感がなかなか抜けなかった彼はおば(母親の姉)にどうしても懐かずそれどころか顔を見ると泣き出す始末です。想像するに遺伝的に母親と同じものを感じて母親が二人いるような思いに襲われて不安と恐怖を感じていたのではないでしょうか。そんな彼の自分と他者の分離感が、いつもテレビで見ているバイキンマンが自分の手の中にあるという経験がバーチャルとリアルの弁別を植えつけ、そのことで自分と他者との弁別――母親から切り離された自分という存在を無意識に認識できたのではないでしょうか。それで母親とは別におばちゃんという存在があることを受け入れ可能にし、他者というぼんやりとした不安な存在も受け入れられるようになって人見知りの解消に繋がったのではないかと思っています。

 

 知能の飛躍という意味では父親の与えた「バイキンマンUFO」と「バイキンマンロボット・だだんだん」です。機械音痴の私なら絶対に与えない(2才にはムリだろうと敬遠する)おもちゃ――「UFO」は最低でも3才、「だだんだん」は3才後半いや4才でもちょっと手こずるであろう難度の高いおもちゃです。とりわけ「だだんだん」は部品点数が30コを超える組み立て、電動式おもちゃです。その「UFO」をやすやすと操作すると、「だだんだん」の部品を根気よく黙々と組み立ててスイッチを操作して動かして、分解して、また組み立てるのです。半端でない根気と集中力で知能を活用、進化させて彼はこのおもちゃを征服しました。

 

 三つめは私が与えた「磁気式のお絵描きボード」です。親の与えたクレヨン(外国製の安全仕様)は使い勝手が悪く彩色がつきにくいので「描きたい意欲」が満たされず不満を感じているように見えたので2才になって間もなくのころプレゼントしました。実は「磁気式」でない紙に絵の具で描くものが欲しかったのですが売ってなくて仕方なく購入したのですがこれが良かったのです。力が要らないから筆運びが自在で、好きに描ける上にサッと消せる機構になっているのでジャンジャン書きまくれて大喜びです。ちょうどフォルム認識ができる時期と重なったのかお絵描きが格段に上達しました。絵が上手なお父さんと一緒にお絵描きを楽しむようになり保育園で先生に褒められてご満悦だったようです。

 

 バイキンマンの縫いぐるみ、UFOとダダンダン、お絵描きボード、どれも親(おとな)の想像を超えた能力を発揮させました。ところが今の「玩具」は「知育玩具」という位置づけでおもちゃに「おとなの用意したあそび」が指定されていて「適用年齢シール」が貼り付けてあります。親たちもシールを頼りにおもちゃ選びしています。しかしおもちゃは「あそび道具」です。子どもを見ていると何が面白くて?と思わされることが度々あります。遊びは子どもの創造力がもっとも発揮される領域でそれは大人の想像をはるかに超えるものであってほしいのです。その創造力を「知育」の名のもとに「限定」するような「おもちゃ」を選んで、あたら子どもの成長を「限定」しているのが今のおもちゃを取り巻く環境になっています。

 さらにおもちゃ屋さんが少なくなりました。「トイザらス旋風」が吹き荒れたのはもう30年以上前でしたが町のおもちゃ屋さんが一気に減って、百貨店のおもちゃコーナーも狭くなって、しかしその「トイザらス」も今や縮小傾向です。トイザらスは年令別にカテゴリー化した知育玩具と高額化で品目を増加させましたが子どもの創造性を生かせる「汎用性」のあるおもちゃ(だいたい安いものです)は少なく、つまるところ子どもにとって「おもしろい」おもちゃがすがたを消したのです。子ども部屋はおもちゃであふれかえっていますが年齢とともに「用済み」になったおもちゃの行く末は片隅(か地下室)のゴミ箱です。 

 

 おもちゃで遊ぶ創造力を限定され、幼稚園から塾と習い事で「与えられる」ことに慣れてしまった幼児期の子どもたちが、学校教育で創造性を発展させることは可能でしょうか。

 今、おもちゃがあぶない。初孫を授かって、老婆心ながらそんな歎きをつぶやきつつ成長を願っている今日この頃です。

 

 

 

2025年2月17日月曜日

地方創成のもうひとつの見方

  晩年の読書の成果の一つは「歴史というものの見方」を得たことです。司馬遼太郎さんをはじめとした歴史小説は最も娯しんだジャンルでした。専門書も宮崎市定、宮本常一、網野義彦のオーソドックスな歴史学の後に中沢新一、柄谷行人、吉本隆明を読めばこんな見方もできるんだと驚かされ柳田国男をはじめとした民俗学や人類学まで触手を伸ばせば歴史を見る眼が広くなって自分ながら受験歴史とは異次元に到達できたと感じたものでした。司馬さんに淫しなかったのは少年時代貸本屋で講談や山手樹一郎、五味康介、柴田錬三郎そして吉川英治の洗礼を受けていたからだと思います。

 受験歴史ということばを使いましたが高校時代、日本史の教師から「マルクス歴史観」を教えられて――勿論教科書から逸脱した授業でしたが――歴史という教科に面白さを感じました。暗記ものという固定観念でいましたからこんなアプローチもあることを知って歴史を見なおしました。その後教科がどんな変遷をたどったか詳らかに知りませんが2022年から「歴史総合」という選択肢ができたことは一大進化と思います。近現代の日本史・世界史を総合して従来の歴史像に近代化、大衆化、グローバル化を反映させることによって、今を生きるわれわれの「現在地」を明らかにして「科学」としての「歴史」を学ぼうという視点は受験歴史を一変させる可能性を感じます。岩波新書の『世界史の考え方』はそんな「歴史総合」をそれぞれの専門家の平易で専門的な論述で把握させてくれる必須の良書です。

 最近読んだ『日本の近代とは何であったか――問題史的考察(岩波新書)』は政治学者の三谷太一郎さんの著作ですが私が晩年の読書で追い求めてきたテーマに明確な解答を与えてくれました。

 岩波新書のこの二冊は晩年の読書の貴重な収穫です。

 

 地方創生は平成25年(2013年)第二次安倍政権の目玉政策として打ち出されて以来すでに10年以上経過していますがまったく成果らしい成果は上がっていません。地方創生の表裏の関係として「東京一極集中」はコロナ禍にみえた一時の転出超傾向は2024年再び転入超過に戻り、なおかつ供給源としての地方大都市圏からの増加が顕著になり大都市以外の地方の人口減と若年労働者の払底(出るべき人はもう出尽くした)が事態が深刻化したことをうかがわせます。

 なぜ地方創生が進捗しないか。それはわが国国土を見る歴史的観点が欠如しているからです。今ある国土の在り方の歴史的分析に基づいた未来図が描けていないからです。限界集落とか消滅都市とか衝撃的なネーミングだけを一人歩きさせて「地方住民」の不安をかき立てておきながらその来たる所以を明確に提示せず、歴史的必然性としての将来の展望を明らかにしないから「国民的合意」が形勢できないでいるのです。人口減という事実(ファクト)とわが国の歴史的趨勢を総合した未来図を国民に提示して合意を形成する。「地方創生」は単なる「政治問題」ではないという認識をまず醸成すべきなのです。

 

 徳川幕藩体制は「農業社会」として世界最高の成功を達成しました。国土を220余に分割し地方分権体制に基づいて地方を活性化させ国土の生産性を極限まで高めたのです。天候不順による飢饉が発生し一時的な食糧不足はあっても定常的には食糧自給体制が保持され260年有余の平和の時代を築いたのは世界的に稀有な例です。世界史年表を見れば1600年から1800年後半まで世界中にどれほどの戦争、内乱、紛争があったでしょうか。この中世から近世という波乱の時代に「飢餓と戦争」という「人類の宿痾」を克服した徳川幕藩体制はその後の近代化の準備を整備した意味でも世界に誇れるものといえます。

 生産性の高い農業社会の有効性は戦前まで持続し先進西欧国家に伍して成長を果たし非西欧国として唯一の近代化に成功しました。しかしこの成功が今、足かせになっているのです。戦後の急激な製造業中心の産業資本主義化は工業化・都市化を推進し農業の余剰労働力を都市が収奪し、人口の減少と無産業化を農村に押しつけたのです。第三次産業化、情報社会の出現はさらに地方の自立を困難にします。

 

 幕藩体制の強制力でそれまで人の住んでいなかった場所まで農地化して藩としての経済力の向上に寄与せしめた徳川の遺制は、製造業、情報産業、第三次産業主体の現状のわが国の産業構造には適さない「国土経営」になっています。しかし「食料の自給体制」「国土の維持・保安と美観の保持」という視点からの「日本全土の経営」はこれからも「日本国の経営」の要諦であり続けます。その上で「無人化した村・町・都市」は止もう得ざる「必然」として覚悟せざるを得ないのです。人口問題は事実(ファクト)としてそのデータを示しています。私有財産制、国土デザインの合意など乗り越えなければならない課題は山積しています。しかしそれを解決し「国民の合意」を形成しなければ未来図は描けないのです。

 仕事を通じて生活資料を確保するという今の経済システムは修正を迫られる可能性が高いかも知れません。医療と学校(学習)が「市場原理」に委ねられる体制はもう限界かも知れません。政治家だけではなく哲学者も含めた広い英知を集結(学術会議を活用して?)しなければこの難関は乗り越えられないでしょう。

 

 歴史というものの見方からすると現在の日中韓(朝)の関係は余りにも「不毛」です。中国は長兄、韓国(朝鮮)は次兄、我が日本は末弟。最近そんな感慨を抱いています。三国の歴史学者――だけでなく英知がひざ詰めで話し合えば新たな歴史観に基づいた国家関係を生みだすことができるのではないでしょうか。輻輳し緊迫する国際関係を打開するためにはまず近隣友好から。

 司馬さんの『菜の花の沖』を読んでからもう40年になるのでしょうか。

 

 

 

 

2025年2月10日月曜日

労働組合は時代おくれか

  毎週土曜日近くのコンビニで毎日新聞を買うことにしています。一度遅くなって売れ切れていたことがあったので以来一部取り置いてもらっています。こだわりは「毎日の書評」で新刊書の評価が適切で小説、専門書にかかわらず評者の論調から選択してアテが外れたことはありません。書評だけでおおよその内容が理解できることもあって重宝しています。

 コンビニの経営者は40才前後の小柄な実直な感じの男性で愛想もよく顔を見ただけで新聞を奥から取り出してくれるのはうれしいものです。この近辺の土地持ちの元農家の孫らしくおとなしそうな働き振りを見ているとコンビニという業態はなんと「巧み」なシステムかと感心せずにはいられません。資本(大型も含めて8台の駐車場込みの土地と建物)と労働力を「支配下」において高いFC(フライチャンズ)料まで徴収しておきながら、不採算と判断すればFC権が剥奪されて廃業せざるをえないのですからなんともFC親会社にとって都合のいいシステムではありませんか。もちろん商品開発から経営ノウハウまで質の高い「経営体」の提供を受けるのだからウインウインの関係なのでしょうが少し見方を変えると「収奪・搾取」という側面が浮かんできます。「個人経営者」(会社組織を取るものもあるかもしれませんが)ですから「労働基準法」の保護はありませんし社会保険もすべて自分持ちです。それを十分おぎなって余りある利益の上がる店も少なくないのでしょうがここ数年の「本部対FC」の争議をみているとこの業態も「人手不足」を背景に曲がり角に差し掛かっているような印象を受けます。国道沿いのこの店(セブンイレブン)の半径500m(~1km)に道を挟んだ真向いのファミリーマートを含めてファミマ2店、ローソン1店セブンイレブン3店とコンビニ激戦地なのですが廃業した店は一店もありませんからコンビニがすぐれた業態であることはまちがいないのでしょう。

 

 コンビニもそうですがアメリカ発の商売に労働者を「個人事業者」化して低賃金で働かせて社会保険も負担しないという業態が多いように思います。たとえば「ウーバータクシー」「ウーバーイーツ」などです。しかもマスコミをはじめとして世間が「新しい働き方」として歓迎、有難がるのです。好きなときに働いて自分の生活を楽しむ、そんなうたい文句で一部の若者を誘惑するように感じるのですがどうなのでしょう。働き方といえば求人情報、アルバイト情報、転職情報の氾濫は一見職業の流動化が促進されて働く者に有利なように感じるかもしれませんが、実際は転職して前職より給料、待遇が改善されたデータはないのです。特に疑問なのは「すき間アルバイト」で中には履歴書も不要というのもあってもし事故、事件があった場合の責任はどうなるのか疑問だらけの就職状況になっています。

 

 京都でも四条などの繁華街は外人のコンビニ店員さんが多いのですが東京(横浜)はもうずっと以前からそうなっています。人手不足は首都圏ではとっくに緊迫しているのです。従って「安い人件費」をベースにした業態は深刻な存続危機を迎えています。宅配、運輸、ファミレスなどの飲食関係サービス業そしてコンビニも。ここに保育、看護職も加えれば低賃金に抑えられている職業はおしなべて人手不足が深刻化しているのです。問題にしたいのは市バスの運転手さんまでなり手不足で路線の縮小廃止が現実化していることです。高齢化はますます進展するでしょうし敬老乗車券は高額化、そのうえバスも不便になるのでは年寄りの買い物や病院通いはどうなるのでしょう。

 

 フジテレビ問題が浮き彫りにしたのは「労働者の未組織」の危うさです。この問題が起こるまでの組合員は80人ほどだったのがこの問題が表面化して一挙に500人超に増加したといいます。そして日枝相談役の独裁を糾弾、退陣を要求する動きを見せたのです。しかし以前からフジテレビ(と関連会社)は日枝相談役をはじめとして70歳代超の高齢男性が経営陣を独占していました。多様性・透明性・柔軟性をこれからの企業経営の要諦と番組では啓蒙しておきながら、放送会社自体は正反対の経営を行ってきたのですから事態は深刻です。しかも経営に問題があるのを自覚しておきながら「自分ごと」として取り組む従業員は1200人のうちのたった80人の労働組合員に過ぎなかったのですから、そして文春に「上納問題」をアバカレて、社会問題化してはじめて労働組合に逃げ込んで「身分保障」を武装しておっとり刀で問題に対処しようというのですからあまりにも「労働者意識」が希薄すぎます。彼ら彼女らは「労働者」ではないと考えていたのでしょうか。労働者というのは製造業の現場に勤務する学歴の高くない人たちのことで、高学歴で「知識労働」に携わるマスコミ人は労働者ではないとでも認識していたのでしょうか。もしそうならなんという浅学な勘違いでしょうか。それがマスコミ人の正体だとしたらわが国のジャーナリズムの質的劣化は極まっているのではないでしょうか。

 冷戦が終わってマルキシズムが退潮して資本家と労働者階級という階級構造は解消したかのように、従って労働組合は時代おくれのもののように勘ちがいした人が多かったのか組合の組織率は低下の一途をたどりました。最盛期には60%近かった組織率は高度成長とともに30%台にまで低下、それが現在では16%に低迷しているのは資本主義の理解が皮相で現実との向き合い方が真剣でないからではないでしょうか。今国家問題にまでなっているUSスチールでも組合の力は無視できないものがありますし映画の現場では職能組合が強力で残業などとてもできない状況だといいます。ドイツでは「労使共同決定方式」という経営システムを模索しているといいます。「株主主権説」だけが資本主義の主流ではないのです。

 

 トランプ大統領の就任式で彼にすり寄るGAFAMをみていて彼らはジャーナリストではないと確信しました。それにもかかわらず今ほどジャーナリズムの必要とされている時代はないのです。

 日本のジャーナリズムの健全なる進化を期待します。

 

 

 

 

 

 

2025年2月3日月曜日

子育ての大誤解

  早いものでもうすぐ孫が3才になります。

 先日お迎えへ行ったとき、いち早く私たちを見つけた女の子が離れたところにいる孫に「Hくん」と呼びかけるとカレは猛スピードで飛んできました。まだ3歳にもならないこの子たちにもう仲間(友達)意識が芽生えていることに驚くとともに1歳保育を決断した娘たちの選択に誤りがなかったことに嬉しさを感じました。

 ヨチヨチ歩きのことばもまだ満足でない頑是ない幼児を親元から離して保育園に預けるなど不憫すぎると内心大反対だったのですが妻に口出しを禁じられていたので黙って耐えました。しかし私の「子育て神話」は半年も経たないうちに見事に打ち砕かれたのです。知能、体力、しつけ、社会化だけでなく非認知能力――根気、やる気、自制心なども親(やジジ・ババ)ではこんなに早く身につかなかったであろう成長を孫は示したのです。

 

 晩年の読書で知った大きな発見のひとつは「ヒトは早産で生まれてくる」というものでした。成体で生れるにはヒトは12~14ヶ月要します。成体になった胎児を出産するには母体の構造が適していないので――出産が危険なので10ヶ月――早産で生れるよう進化したのが現生人類というのです。二足歩行はヒトの脳を他の哺乳類の3~4倍の大きさに進化させました(ゴリラが400gなのに対してヒトのそれは1200~1400gあります)。二足歩行で骨盤の小さくなったヒトに成体で出産することは危険になったのです。死産と母体の損傷(死も)を繰り返した結果早産で生まれるよう進化したのです。従ってヨチヨチ歩きまで8ヶ月から1年、離乳も早くて1年後、言語の習得は3年と養育期間の長期化がヒトに必然化したのです。

 現生人類が出現して30万年、農耕は始まってまだ1万年ですからヒトの歴史のほとんどは「狩猟採集時代」です。狩猟はオトコの仕事、採集はオンナの仕事と役割分担されていて、狩猟は不安定ですから食料の基礎は採集が担っていました。ハハも貴重な労働力でしたから産後もスグに労働にかりだされます。子育てはババたちの共同作業で行われました(ババといっても20代後半から30才だったでしょう、平均年齢は30才に満たなかった時代ですから)。農業時代になってもハハは農作業に欠かせない存在でしたから子育ては大家族で行なわれました。子育てが「核家族のツマの専業」のように認識されるようになったのはここ40~50年のことです。人類の歴史を考えれば「子育ては集団で行う」のが自然なのです。

 経済的な理屈を言えば、工業化都市化(核家族化)が急速に進展して大量の労働力が必要になった製造業主体の産業資本主義は長時間労働(労働力×労働時間)を可能にする家庭システムが望ましいので「専業主婦」という存在をつくりだしたのです。これは日本だけでなくアメリカもヨーロッパも先進国共通の現象です。「3才まで母親が育てるべき」という「子育て神話」はこうして作られたのです。しかもこれは幼児教育にも影響を与え幼稚園教育は3才からとされ、保育園は経済的に恵まれない母親も働かねば家計を維持できない低賃金層の家庭を援助するシステムという位置づけで生まれ今日までそうした印象が残っているのです(幼稚園は文科省、保育園は厚労省という役割分担にそれが表れています)。

 

 昨年の大河ドラマの「光る君へ」を見ていて天皇や貴族(高級官僚)の子育ては乳母たちが行なっていて彼女たちが皇后や天皇のもとに「お目見え」で成長を見せるかたちになっているのを知りました。イギリスの上流階級では住み込みの乳母と家庭教師で子育てを行い就学年齢に達すると寄宿舎のある私立の学校へ入れます。子育てに親はほとんど関与しないのですがイギリスの指導層はこうした環境で育った人たちで構成されていました。

 子供は親の影響で育つ――3才までは母親が育てるのがベストという「子育て神話」の根拠はどこにあるのでしょうか。

 

 お迎えに行ったときの楽しみは「連絡帳」を読むことです。子育て一年生の娘は細々とした子育ての困ったことや心配を素直に連絡帳に書いていますが(えらいと思います)保育士さんはその一つひとつに丁寧に答えながら園での孫の成長ぶりを愛情込めて書いてくれています。ふたりの交流はその辺の子育て本を読むよりも面白く有益な実践に富んでいます。

 考えてみれば当然のことで保育士さんは専門教育を受けて、精選された知識の蓄積と実践のプログラムに基づいて保育するのですから素人の親が試行錯誤しながら子育てするのと比較にならない成果をもたらして何の不思議もないのです。

 今でも幼児保育(1~2才)を蔑視して3才になって家庭で育てられた幼児との混合クラスになると保育園で育った幼児はしつけが行き届いてないから落ち着きがなくガサツな子が多いなどというネットの情報がありますが本当にそうでしょうか。

 

 子育て神話に疑問を抱いて図書館のネット検索していると『子育ての大誤解(ジュディス・リッチ・ハリス著ハヤカワ文庫NF)』という本がヒットしました。その主論点は「集団社会化説」といいます。まだ読み始めたばかりですが読み終えたあかつきには改めて論旨を紹介したいと思っています。

 

 80才で授かった孫の成長は老人にとって澪標(みおつくし)です。老いと真逆の生命のかがやきは生きる意欲を覚醒してくれます。本当にありがたくまぶしい「我が孫」です。