2025年2月17日月曜日

地方創成のもうひとつの見方

  晩年の読書の成果の一つは「歴史というものの見方」を得たことです。司馬遼太郎さんをはじめとした歴史小説は最も娯しんだジャンルでした。専門書も宮崎市定、宮本常一、網野義彦のオーソドックスな歴史学の後に中沢新一、柄谷行人、吉本隆明を読めばこんな見方もできるんだと驚かされ柳田国男をはじめとした民俗学や人類学まで触手を伸ばせば歴史を見る眼が広くなって自分ながら受験歴史とは異次元に到達できたと感じたものでした。司馬さんに淫しなかったのは少年時代貸本屋で講談や山手樹一郎、五味康介、柴田錬三郎そして吉川英治の洗礼を受けていたからだと思います。

 受験歴史ということばを使いましたが高校時代、日本史の教師から「マルクス歴史観」を教えられて――勿論教科書から逸脱した授業でしたが――歴史という教科に面白さを感じました。暗記ものという固定観念でいましたからこんなアプローチもあることを知って歴史を見なおしました。その後教科がどんな変遷をたどったか詳らかに知りませんが2022年から「歴史総合」という選択肢ができたことは一大進化と思います。近現代の日本史・世界史を総合して従来の歴史像に近代化、大衆化、グローバル化を反映させることによって、今を生きるわれわれの「現在地」を明らかにして「科学」としての「歴史」を学ぼうという視点は受験歴史を一変させる可能性を感じます。岩波新書の『世界史の考え方』はそんな「歴史総合」をそれぞれの専門家の平易で専門的な論述で把握させてくれる必須の良書です。

 最近読んだ『日本の近代とは何であったか――問題史的考察(岩波新書)』は政治学者の三谷太一郎さんの著作ですが私が晩年の読書で追い求めてきたテーマに明確な解答を与えてくれました。

 岩波新書のこの二冊は晩年の読書の貴重な収穫です。

 

 地方創生は平成25年(2013年)第二次安倍政権の目玉政策として打ち出されて以来すでに10年以上経過していますがまったく成果らしい成果は上がっていません。地方創生の表裏の関係として「東京一極集中」はコロナ禍にみえた一時の転出超傾向は2024年再び転入超過に戻り、なおかつ供給源としての地方大都市圏からの増加が顕著になり大都市以外の地方の人口減と若年労働者の払底(出るべき人はもう出尽くした)が事態が深刻化したことをうかがわせます。

 なぜ地方創生が進捗しないか。それはわが国国土を見る歴史的観点が欠如しているからです。今ある国土の在り方の歴史的分析に基づいた未来図が描けていないからです。限界集落とか消滅都市とか衝撃的なネーミングだけを一人歩きさせて「地方住民」の不安をかき立てておきながらその来たる所以を明確に提示せず、歴史的必然性としての将来の展望を明らかにしないから「国民的合意」が形勢できないでいるのです。人口減という事実(ファクト)とわが国の歴史的趨勢を総合した未来図を国民に提示して合意を形成する。「地方創生」は単なる「政治問題」ではないという認識をまず醸成すべきなのです。

 

 徳川幕藩体制は「農業社会」として世界最高の成功を達成しました。国土を220余に分割し地方分権体制に基づいて地方を活性化させ国土の生産性を極限まで高めたのです。天候不順による飢饉が発生し一時的な食糧不足はあっても定常的には食糧自給体制が保持され260年有余の平和の時代を築いたのは世界的に稀有な例です。世界史年表を見れば1600年から1800年後半まで世界中にどれほどの戦争、内乱、紛争があったでしょうか。この中世から近世という波乱の時代に「飢餓と戦争」という「人類の宿痾」を克服した徳川幕藩体制はその後の近代化の準備を整備した意味でも世界に誇れるものといえます。

 生産性の高い農業社会の有効性は戦前まで持続し先進西欧国家に伍して成長を果たし非西欧国として唯一の近代化に成功しました。しかしこの成功が今、足かせになっているのです。戦後の急激な製造業中心の産業資本主義化は工業化・都市化を推進し農業の余剰労働力を都市が収奪し、人口の減少と無産業化を農村に押しつけたのです。第三次産業化、情報社会の出現はさらに地方の自立を困難にします。

 

 幕藩体制の強制力でそれまで人の住んでいなかった場所まで農地化して藩としての経済力の向上に寄与せしめた徳川の遺制は、製造業、情報産業、第三次産業主体の現状のわが国の産業構造には適さない「国土経営」になっています。しかし「食料の自給体制」「国土の維持・保安と美観の保持」という視点からの「日本全土の経営」はこれからも「日本国の経営」の要諦であり続けます。その上で「無人化した村・町・都市」は止もう得ざる「必然」として覚悟せざるを得ないのです。人口問題は事実(ファクト)としてそのデータを示しています。私有財産制、国土デザインの合意など乗り越えなければならない課題は山積しています。しかしそれを解決し「国民の合意」を形成しなければ未来図は描けないのです。

 仕事を通じて生活資料を確保するという今の経済システムは修正を迫られる可能性が高いかも知れません。医療と学校(学習)が「市場原理」に委ねられる体制はもう限界かも知れません。政治家だけではなく哲学者も含めた広い英知を集結(学術会議を活用して?)しなければこの難関は乗り越えられないでしょう。

 

 歴史というものの見方からすると現在の日中韓(朝)の関係は余りにも「不毛」です。中国は長兄、韓国(朝鮮)は次兄、我が日本は末弟。最近そんな感慨を抱いています。三国の歴史学者――だけでなく英知がひざ詰めで話し合えば新たな歴史観に基づいた国家関係を生みだすことができるのではないでしょうか。輻輳し緊迫する国際関係を打開するためにはまず近隣友好から。

 司馬さんの『菜の花の沖』を読んでからもう40年になるのでしょうか。

 

 

 

 

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