80才にして初孫を授かるという僥倖に恵まれて彼のまぶしいばかりの成長と急激な老いに見舞われる我が身との余りの落差に呆れるしかありません。80才というのはまぎれもなく人間の肉体の転換点であらゆる機能が衰えどんなに抵抗しても一段づつ、ハッキリと老いていくのをどうすることもできません。ところが彼はわずか十日も見ないと驚くべき成長を遂げていて、もどかしかったおしゃべりに論理が通るようになったり走るスピードがおばあちゃんが追いつけないほどにアップしていたりと圧倒される2才10ヶ月です。
おもちゃと能動的に関わりだしたのはヨチヨチ歩きのころで、おじゃみと太鼓がお気に入りでした。おじゃみは最初3個で遊んでいましたがのちに6個になるほど遊びが広がったのは意外でした。それは太鼓も同様で、おもちゃ売り場では「3才~」のシールが貼ってありましたが与えると自分で遊びをつくりだして、特にバチは今でもいろんな用途に使っています。鬼のツノだったりロボットの足に見立てたりと。
孫に大きな影響を与えたはじめてのおもちゃは「バイキンマン」のぬいぐるみでした。2才になる3ヶ月ほど前にやっとテレビが解禁になって「アンパンマン」にどはまりして、なぜかバイキンマンが大のお気に入りになりました。そして2才の誕生祝いに母親からもらったバイキンマンのぬいぐるみがそれまでの強度の「人見知り」を一挙に解消したのです。思うに、母親との「一体感」――母体との一体感がなかなか抜けなかった彼はおば(母親の姉)にどうしても懐かずそれどころか顔を見ると泣き出す始末です。想像するに遺伝的に母親と同じものを感じて母親が二人いるような思いに襲われて不安と恐怖を感じていたのではないでしょうか。そんな彼の自分と他者の分離感が、いつもテレビで見ているバイキンマンが自分の手の中にあるという経験がバーチャルとリアルの弁別を植えつけ、そのことで自分と他者との弁別――母親から切り離された自分という存在を無意識に認識できたのではないでしょうか。それで母親とは別におばちゃんという存在があることを受け入れ可能にし、他者というぼんやりとした不安な存在も受け入れられるようになって人見知りの解消に繋がったのではないかと思っています。
知能の飛躍という意味では父親の与えた「バイキンマンUFO」と「バイキンマンロボット・だだんだん」です。機械音痴の私なら絶対に与えない(2才にはムリだろうと敬遠する)おもちゃ――「UFO」は最低でも3才、「だだんだん」は3才後半いや4才でもちょっと手こずるであろう難度の高いおもちゃです。とりわけ「だだんだん」は部品点数が30コを超える組み立て、電動式おもちゃです。その「UFO」をやすやすと操作すると、「だだんだん」の部品を根気よく黙々と組み立ててスイッチを操作して動かして、分解して、また組み立てるのです。半端でない根気と集中力で知能を活用、進化させて彼はこのおもちゃを征服しました。
三つめは私が与えた「磁気式のお絵描きボード」です。親の与えたクレヨン(外国製の安全仕様)は使い勝手が悪く彩色がつきにくいので「描きたい意欲」が満たされず不満を感じているように見えたので2才になって間もなくのころプレゼントしました。実は「磁気式」でない紙に絵の具で描くものが欲しかったのですが売ってなくて仕方なく購入したのですがこれが良かったのです。力が要らないから筆運びが自在で、好きに描ける上にサッと消せる機構になっているのでジャンジャン書きまくれて大喜びです。ちょうどフォルム認識ができる時期と重なったのかお絵描きが格段に上達しました。絵が上手なお父さんと一緒にお絵描きを楽しむようになり保育園で先生に褒められてご満悦だったようです。
バイキンマンの縫いぐるみ、UFOとダダンダン、お絵描きボード、どれも親(おとな)の想像を超えた能力を発揮させました。ところが今の「玩具」は「知育玩具」という位置づけでおもちゃに「おとなの用意したあそび」が指定されていて「適用年齢シール」が貼り付けてあります。親たちもシールを頼りにおもちゃ選びしています。しかしおもちゃは「あそび道具」です。子どもを見ていると何が面白くて?と思わされることが度々あります。遊びは子どもの創造力がもっとも発揮される領域でそれは大人の想像をはるかに超えるものであってほしいのです。その創造力を「知育」の名のもとに「限定」するような「おもちゃ」を選んで、あたら子どもの成長を「限定」しているのが今のおもちゃを取り巻く環境になっています。
さらにおもちゃ屋さんが少なくなりました。「トイザらス旋風」が吹き荒れたのはもう30年以上前でしたが町のおもちゃ屋さんが一気に減って、百貨店のおもちゃコーナーも狭くなって、しかしその「トイザらス」も今や縮小傾向です。トイザらスは年令別にカテゴリー化した知育玩具と高額化で品目を増加させましたが子どもの創造性を生かせる「汎用性」のあるおもちゃ(だいたい安いものです)は少なく、つまるところ子どもにとって「おもしろい」おもちゃがすがたを消したのです。子ども部屋はおもちゃであふれかえっていますが年齢とともに「用済み」になったおもちゃの行く末は片隅(か地下室)のゴミ箱です。
おもちゃで遊ぶ創造力を限定され、幼稚園から塾と習い事で「与えられる」ことに慣れてしまった幼児期の子どもたちが、学校教育で創造性を発展させることは可能でしょうか。
今、おもちゃがあぶない。初孫を授かって、老婆心ながらそんな歎きをつぶやきつつ成長を願っている今日この頃です。
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