2010年3月15日月曜日

トヨタと司馬遼太郎と

 トヨタバッシングが一向に収まらない。しかし報道の全てを真実と信じるべきかについては慎重な検証が要る。『アクセルが踏み込んだ状態で戻らなくなって高速のまま衝突した死亡事故の運転中の自動車からコールセンターに伝送されている緊急救助依頼のリアルタイムの声』が度々テレビで流された時ある種の企図を感じた。あの声が捏造されたものだと言っているのではない。あのような報道のかたちに悪意を感じたのだ。

 2009年3月期にトヨタは4369億円の赤字を出したがマスコミはこれを金融危機の影響だとした。しかし同業他社に比べて突出したトヨタの赤字の多くの部分が過剰投資(早すぎた成長願望)であったと米議会公聴会で社長が言明した。品質管理体制にも不備があったと彼は認めている。トヨタの『ものづくりノウハウ』に対する絶賛振りは異常過ぎた。早い時期から批判はあった。納入業者がカンバン方式の指定時間に合わせるためにトヨタの門前に長時間列を成して並んでいることや、カイゼン活動の時間が就業時間として認められない労働基準法違反のことなど、小さく報じられていたが多くのマスコミは無視した。

 ちょっと前まで私の周りでは司馬遼太郎の「坂の上の雲」のテレビドラマの話題で持ちきりだった。確かに彼の書くものは面白い。今や司馬文学は国民文学の地位を確保している。しかし私はかねてより彼のものを『小説』としては如何なものかと思っていた。だがこんな私に同調する人など皆無で長い間寂しい思いをしてきた。ところが最近こんな文に出会った。「彼(司馬遼太郎さん)の小説は半分以上エッセイだと言ってもいい。(中略)時として小説の体裁を成していないぐらい、そっちの方が多い。そういうやりかたもあるということです」。これは池澤夏樹の「世界文学を読みほどく」の一節である。さすがは池澤さんだ、私の言いたいことをズバリ表現している。長年の胸のつかえが一挙にほどけた。

 トヨタにしても司馬さんにしても、日本の誇るべきものであること論をまたない。しかしだからといって全面的に、なにからなにまで認めるのではなく、正当に評価する姿勢が必要なのではないか。そして時として過ちを見つけ、正す、厳しい目を失わないようにしないと、又、いつか来た道に迷い込んでしまうのではないかとおそれる。

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