2012年7月9日月曜日

イワン・イリイチの死

なぜ「老人」という言葉が忌避されるのだろう。老いが死に限りなく近づく現象であるからだろうか。死と生は補完語であるはずなのに、あったはずなのに、いつから死は生の対立語として貶められたのだろうか。

 こんな現代人の死生観をトルストイの「イワン・イリイチの死」(光文社古典新訳文庫、望月哲男訳)は誡め、あるべき死生観を悟らせてくれる。
ロシアの高級官僚(判事)である彼は「気楽、快適、上品」を追い求め、遂に同輩より2階級特進、5000ルーブリの上級職に就く。「仕事上の歓びが自尊心の歓びだとすれば、社交上の歓びは虚栄心の歓びであった。だがイワン・イリイチの本当の歓びは、ホイスト(カードゲームの一種)を戦わせる歓びだった(p59)」という得意絶頂の彼を病魔が襲う。当初の医師の見立てとは裏腹に病は重篤化し苦痛に苛まれ死の恐怖に脅える。病ではなく死の影に慄く彼を医師も家族さえも理解せず同情してくれないと憤る。「瀕死の病人は相変わらず身も世もなく叫び、両手を振り回していた。その片手が中学生の頭に当たった。息子はその手をつかんで唇に当てると、わっと泣き出した。」「するとその時、誰かが手に口づけしてくれるのを感じた。目を開けてみると息子が見える。彼は息子が哀れにになった。(略)彼は妻が哀れに思えた。/『そうだ、私はこの者たちを苦しめている』彼は思った。『彼らは哀れんでくれるが、しかし私が死ねば楽になるだろう』」「妻や子がかわいそうだ。彼らがつらい目にあわないようにしてやらなくては。彼らをこの苦しみから救えば、自分も苦しみをまぬがれる。」「なんと良いことだろう、そしてなんと簡単なことだろう。」「彼は自分がかねてからなじんできた死の恐怖を探してみたが、見出せなかった。死はどこにある?死とは何だ?恐怖はまったくなかった。死がなかったからだ。死の代わりにひとつの光があった。/『つまりこれだったのだ!』(略)『なんと歓ばしいことか!』」「『死は終わった』彼は自分に言った。『もはや死はない』」(p136~138)

 自分のことばかり考えて、苦しみのたうちまわり、恨み憤り恐怖していた彼が、息子と妻を哀れと思ったとき、彼らを楽にしてやろうと思ったとき、死の恐怖から開放され苦痛を克服する事が出来た。

 死を単なる「個人的なこと」として捉えるのではなく愛する人たちの間にいる自分のこととして考えることができれば、老いも死も「異なったかたち」で見ることができそうだ、と文豪トルストイの「イワン・イリイチの死」は教えてくれる。

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