2012年7月30日月曜日

『犠牲』から目を背けるな

矢張りそうだったか、福島第1原発事故の収束作業を請け負った建設会社の作業員が警報付き線量計(APD)に鉛カバーを装着させられていたという記事を読んだとき、心の奥底でそうつぶやいていた。更に同社が法律で禁止されている「多重派遣(派遣労働者を受け入れた会社が更に別の会社に労働者を再派遣しその会社の指揮下で働かせる行為)」の疑いのある作業員を使用していたという報道があり、その感はいよいよ強まった。
『犠牲者』が、知らないところで、間違いなく存在している、という畏れだ。

宗教家の山折哲雄さんが「危機と日本人・『犠牲』から目を背けるな(原発『事故調』の審議)」というコラムでこの問題について鋭く論じている(日経24.6.24)。(以下「」内は引用)
事故直後アメリカから「フクシマ・フィフティーズ・ヒーロー」という強烈なメッセージが寄せられた。現場で危機回避のために命がけで献身している50人の作業員たちの『犠牲』を『ヒーロー』と称賛した報道だが、そこにはこの『過酷事故』を収束するには何人かの犠牲なくしては成立しないという冷厳な現実観がある。しかし我々はどこかで『綺麗ごと』で『人命尊重』を謳い上げていなかったか。
全面撤退か一部撤退かで責任のなすり合いがあったが、「現場にふみとどまる人々が犠牲になるかもしれないことに目をつぶるのか、それともそのような危機的な状況を覚悟するのか」という信念をもって語られていただろうか。また、もし「現場からの全面撤退ということが、犠牲回避のための祈るような叫びであった」のかどうか検証されていたら頭ごなしに否定する事が許されたであろうか。

あの過酷事故の現場で働いていた人たちのすべてを東電は把握しているのか。2月末現在で約2万人が被爆しながら作業をしたという資料があるが、その全員についてその後の追跡調査が行われていて後日被爆被害が出てきたときに国家の補償で治療が受けられる体制がとられているのか。もしそうでないなら彼らの『犠牲』は『難死』に終わってしまうではないか。

「危機における生き残りの道をどう考えるのか」、そのための『犠牲』を国民が他人事でなく受け入れことができるのか。
再稼動という選択の過程でこのような覚悟がなされたのだろうか。

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