2012年10月14日日曜日

人間 指導者 政治

 ビール類の売り上げ不振が続いている。大手5社の1~9月の課税済出荷量は前年同月比1.4%減で8年連続の売り上げ減になる。原因についていろいろ言われているが所詮「旨くない」からではないのか。発泡酒が出てきたときには「ビールに似せたものだからこんなものだろう」で済ませたが『第3のビール』に至って「これはもう全く別物」と言わざるを得なかった。低価格で酔えればいい、なら代替品で少しでも旨いものがあれば缶チュウハイでも缶ハイボールでもいいわけで、結局ビール会社は大衆の嗜好の変化に振り回されて「自らの首を絞める」結果を招いたということだろう。
テレビも同様で「面白くない」から売れないのだ。デジタル移行で無理やり買い換えさせられたが内容はアナ ログ時代と何ら変わるところがなく、お笑い芸人等のタレント事務所主導の番組ばかりで面白くないことこの上ない。テレビは最早「電気紙芝居」ではない、情報チャンネルだ。そのことをテレビに関わる人たちは理解しているのだろうか。
ビールもテレビも「本質」を忘れて成長はない。

唐突だが人間の本質は何だろう?「人の性は悪、その善なるは偽なり」と荀子は「性悪説」で喝破している。人の本来の性質は悪であり人の性質が善であるのは人為の結果である、というのだ。私は長い間「本性が善である人は人格を偽っているのだ」と理解していた。何より誤解していたのは「偽なり」を「ギなり」と読んでいたことである。これは訳にもある通り「いつわり」でなく「人為」を意味しているから「イなり」が正しく、「偽」と「為」は昔は通じて用いられたからここでは「イ」と読むべきだ、と「小川環樹著漢文入門(岩波全書)」に教えられた。

では指導者の本質はどうあらねばならないのか?孔子は論語で次のように述べている。「子 子夏に謂いて曰く、女(なんじ) 君子儒と為れ、小人儒と為る無かれ、と(雍也篇より)」。簡単に言えば(小人儒)知識人で終わるな(君子儒)教養人と為れ、ということで「君子儒」が指導者の本質とみているのだ。知識だけでなく徳性とか、表現力・判断力・構想力・決断力等々人間性・人格性といったものを備えた人物が指導者にふさわしいことになる。(加地伸行著「論語」講談社学術文庫より)。

最後に政治の本質はなんだろうか?「誠実さは最高の政治である(略)誠実さはあらゆる政治に勝るという理論的命題は、いかなる異議をも限りなく超越して、政治の不可欠な条件となっているのである(カント「永遠平和のために―哲学的な草案」中山元訳・光文社古典新訳文庫より)」。

民主党政治が末期的症状を呈している。原発の再稼働問題や復興予算の流用問題で示した態度は政権党にあるまじき醜態である。未開で未熟であることを自覚して「人為」を重ね、政治人として政党として成長を期して欲しい。

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