啓蒙について考えている。重くのしかかる閉塞感と目を覆うばかりの政治の劣化を打破し再生するためには市民の啓蒙が必要なのではないかと思うからである。
カントは啓蒙をこう定義している。人間が、みずから招いた未成年の状態から抜け出ることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。だから人間はみずからの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる。(略)ほとんどの人間は自然においてはすでに成年に達していて(自然による成年)、他人の指導を求める年齢ではなくなっているというのに、死ぬまで他人の指示を仰ぎたいと思っているのである。(略)その原因は人間の怠慢と臆病にある。というのも、未成年の状態にとどまっているのは、なんとも楽なことだからだ。(略)書物に頼り、(略)牧師に頼り、(略)考えるという面倒な仕事は、他人がひきうけてくれるからだ。(略)多くの人々は、未成年の状態から抜け出すための一歩を踏み出すことは困難で、きわめて危険なことだと考えるようになっている。(光文社古典新訳全集「カント・啓蒙とは何か」)。
『閉塞感』というのは一歩を踏み出す『選択肢』がない状態だ。『政治の劣化』は政治家が国民に希望の持てる『選択肢』を提示する能力がないことによる。我が国は長い間西欧先進国にキャッチアップすればよかった。世界は一部の有力国が合意を形成することで繁栄を寡占することが許されてきた。我が国も世界も未経験の領域に踏み込んでいる、他人の指示を仰げない状態にいる。
この時期政治はどうあらねばならないか。政治とは国という組織を運用する義務を背負う行為です。ところが物事を組織的に見る目の欠落から、(略)虚偽と隠蔽と推理力の欠乏とがそこに瀰漫するとき、そこには社会の弱体化、一国の文明の崩壊が待っている。そしてそれは言語能力の軽視、低下に相応じる。これは国語学者大野晋の考え方である(岩波新書「日本語の教室」)。大野は鈴木梅太郎、湯川秀樹ら先人の偉業を讃えたあとこう続ける。思考の底の底の部分で、言語の力と、(物理学の)構想力とが何かしら通じ合っているところがあると私は見ます。(略)文明といっても実はその基本は、「集める、選び出す、言語化する、論理化する」という行動にある。「組織としてものを見る」態度にある。(略)ただし、ここで注意すべきは右に挙げた人々はみな戦前の教育を受けた人であり、漢文や漢文訓読文で育ち、明晰・的確・秩序を心がけて育った人々だということです。(略)戦後50年たった現在、文明を維持する力を失いつつある。正確さの喪失、真実に対する誠意の欠如がそれである。
ノダる、などと若者から最低の評価を受けてしまった現首相の「空疎で不誠実」な言葉からは、もう何も生み出されないであろう。
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