2013年3月4日月曜日

書評の魅力

 昨年亡くなった丸谷才一氏の事績の一つに書評がある。彼は書評をこう捉えている。「しかし紹介とか評価とかよりももっと次元の高い機能もある。それは対象である新刊本をきっかけにして見識と趣味を披露し、知性を刺激し、あはよくば生きる力を更新することである。つまり批評性。読者は、究極的にはその批評性の有無によってこの書評者が信用できるかどうかを判断するのだ。この場合一冊の新刊書をひもといて文明の動向を占ひ、一人の著者の資質と力量を判定しながら世界を眺望するといふ、話の構えの大きさが要求されるのは当然だらう(ちくま文庫「快楽としての読書・海外篇」p30)」。

 構えの大きな典型としてハヤカワ・ミステリを論じた次の一文は好例であろう。「ところで、あまり注目されていないことだけど、ハヤカワ・ミステリが日本文化に与えた大きな影響で、マルクス主義的な切り方ではどうしても切れないものがあるということを、はっきり示した、ということがあると思います。よく、探偵小説は市民社会を典型的に示す文学であって、共産主義社会では成立しないといわれますね。そのことからいえば実にあたりまえなんだけれども、これだけ面白くて華やかなものをマルキシズムで切ったところで何の意味もないと、日本のマルクス主義者 たちは心の底で思ったんじゃないでしょうか。(ちくま文庫「快楽としてのミステリ」p37)」。
海外推理小説書評の嚆矢にして大傑作「深夜の散歩―ミステリの愉しみ(ハヤカワ文庫)」にある中村真一郎の短編小説論は彼の見識を見事に表している。「短編は、それでは長編と、方法的にどこが違っているかというと、長編は人生そのものの姿を提出するやり方である。(これが、近代市民社会の発明である。だからあのギリシャ気狂いのピエール・ルイスは、「ギリシャになくて、近代にあるのは、タバコと小説(ロマン)である」といった訳だ。)ところが、短編では人生に立ち向かった作者の姿勢を見せる。目的は人生そのものでなく、人生の解釈であり要するに作者の精神である。だから、抒情詩に近いのである(p175)」。
 紹介の白眉は同じ「深夜の散歩」で丸谷の書いた「フィリップ・マーロウという男」だろう。レイモンド・チャンドラーのハードボイルド探偵小説の主人公フィリップ・マーロウの魅力を綴ったこの書評は次の箴言を一躍有名にした。「『あなたのようにしっかりした男がどうしてそんなに優しくなれるの?』と女に訊ねられたとき、こう答えるのである。『しっかりしていなかったら、生きていられない。優しくなれなかったら、生きている資格がない』(「プレイバック・清水俊雄訳」より)」は「タフでなければ生きて行けない。優しくなれなければ生きている資格がない」として人口に膾炙しキザ男の口説き文句として定着したのだ。

 私はE・Qとペリー・メイスン、ディック・フランシスを偏愛したけれども同年代の多くの人たちはハヤカワ・ミステリを広く愛読したに違いない。ハヤカワ・ミステリの魅力の源泉はどこにあったのか。詩人・田村隆一が創刊時編集長であったことを知れば納得であろう。

 池澤夏樹が福永武彦の愛息であり福永が加田玲太郎の筆名で探偵小説を書いていた、など楽屋裏の話にも事欠かない「深夜の散歩」は福永武彦・中村真一郎・丸谷才一の共著になる稀代の名篇である。

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