2013年5月6日月曜日

人はなぜ勉強するのか《続》

では人はなぜ勉強をするのか。
 山極教授はこう言っている。「科学という学問は友達を作り、自分の思考を磨くものであるはずだ。」「ときには異なる知識や違う能力をもつ人々がチームを組み、役割を分担して目標達成に挑む。その際は、自分が抜き出ることより、それぞれの能力を生かして助け合うことが必要になってくる。(略)個人の競争ではなく、チームワークが良い結果につながるのである。」「科学は文化や宗教の壁を越えて常識を作る。それはこれまで科学の道を志した人々の無数の問いによって更新されてきた。その世界は功名心ではなく、新しい発見と事実に基づいて未知の扉を開けたいという謙虚な心によって支えられてきた。」こう述べたあと教授は次のように結論をいう。「科学は世界の見方を共有して友を作り、平和をもたらす大きな力になる。」と。
 グローバル化し複雑化した現代では、異なる学問領域の協業や複数の国家が連携して取り組まなければ解決しない問題がほとんどである。こうした背景を認識すると山極教授の言葉がにわかに現実味を帯びてくる。科学の知識を生かして競争に勝ち、多くの報酬を個人的に得るというこれまでの成功のイメージが実は可能性が薄いことなのだということが実感できるであろう。
 余談だが科学を政治に置き換えると「政治は世界の見方を共有して同士を作り、平和をもたらす大きな力になる」となる。ところが現実の政治は選挙のたびに異なる同士で政党を作り、選挙に勝つために世界の見方を共有しない政党に移ることが平気で行われているから、「政治が機能しない」ことになる。そもそも政治は学問とは無縁なのかもしれないが。
 
 なぜ学問(勉強)をするのか、という問いの究極の答えは「ひとを愛するため」と私は考えている。社会心理学者のエーリッヒ・フロムの語る愛はスバリ私の考えを代弁してくれている。「近親相姦は、子宮のぬくもりと安全性の象徴であり、大人の自立とは裏腹の臍の緒依存の象徴である。人は「知らない人」を愛することができてはじめて、自分自身を認識することができ、別の人間の核心に自分自身を関係づけることができてはじめて、ひとりの人間としての自分を経験することができる。(略)「知らない人」、自分と違う社会的背景をもった人を愛することができない限り、性的な意味ではなく性格学的な意味では、今でも近親相姦を行っていることになる。人種偏見や民族主義的偏見は、現代文明における近親相姦的要素の現れである。われわれは、一人ひとりが知らない人のことを兄弟のように考え、感じ、受け容れることができるようになってはじめて、近親相姦を克服したことになるのである(「愛と性と母権制」p60)」。
 人はひとりでは生きていけない、他人の間で生きていくしかない。他人は自分とは異なった考え方をしている。従って異なった考え方を理解することが即ち「生きていく」ことにつながる。学問は「物事の考え方、およびそのための用具と訓練」であるから学問を学ぶことは異なった考え方を理解できる力になる。大事なことは「用具と訓練」という表現である。ひとつの学問を身に付け、そのための用具を手に入れて考え方の訓練をするということを具体的に説明するとこうなる。私は経済学を勉強した。経済学という考え方とそのツールを手に入れたわけだが、あらゆる現象や事柄を「経済学の眼=用具」で理解するには相当の訓練が必要になる。大学で経済学を学んだだけでは経済学を習得したことにはならないのである。マックス・ウェーバーがわざわざ「用具と訓練」を付け加えているのはこういう意味である。勉強をしたい、学問を追求したいという「抑え難い欲求」は誰にでも一度はあったはずだが挫折し「勉強嫌い」になる原因は訓練に耐え乗り越えることができないところにある。
 フロムがいうように知らない人を愛し「知らない人のことを兄弟のように考え、感じ、受け容れる」にはその人の考え方を理解する必要があり、そのためには訓練が必要なのだが挫折してしまうことが多い。すると「大人の自立とは裏腹な近親相姦的な子宮のぬくもりに包まれた安全な臍の緒依存」に頼ってしまうことになる。昨今の社会情勢を見ると自分でない人(たとえそれが我が子であっても肉親であろうが)、「知らない人」を愛せないで苦しみ悩んでいる人のいかに多いかが分かる。それがひいては、人種偏見や民族主義的偏見に結びついて不幸な戦争に発展することも少なくないのである。

 人はなぜ勉強するのか。それは、人を愛するためである、と私は考える。

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