2013年4月29日月曜日

人はなぜ勉強するのか

  新入生が「5月病」にかかる時期になってきた。そこで「人はなぜ勉強をするのか」について考えてみよう。

 何時だったか関西お笑い芸人の放談番組があってそのうちの一人が「勉強なんかせんでもエエ!生きていくには知恵があったらええんや!」と言っていたのを記憶している。MCの芸人の「そうでんなぁ」に一同大喝采で番組は終わったのだが、もしこの言葉を子ども達が鵜呑みにしてしまったら困ったことになるのでこのことから考えてみよう。というのも意外と多くの人がこれと同じ考えを持っているからだ。
 人はいろいろな情報を収集しながら生きている。情報の量は厖大でバラバラでは使いにくいからある「固まり」として捉える方が勝手がいい。その固まりが「知識」でありそれが高次に体系づけられ深化したものが学問になる。固まりは歴史とか科学や文学などに分類される。学問が実際生活にどのように関与するかについてマックス・ウェーバーは「物事の考え方、およびそのための用具と訓練」であると言っている(「職業としての学問」から)。学問を初学的に再編したものが「教科」であり学校で勉強するのはこの教科である。人は情報や知識を習得する過程で便利のために自分に都合の良い「価値基準」をつくりだす。価値基準ができるとそれまでのように何でも習得するのではなく基準によって知識や情報を取捨選択するようになる。その取捨選択された知識と情報の体系が「知恵」である。従って知恵は個人的なものだと言えるし、選択されているから「偏り」があり「幅が狭い」。勉強するのはこの「偏り」をできるだけ排除し「狭さ」を広げるためであると言っていい。
 知恵だけでも生きていけるが、勉強をしたほうが偏りを少なく幅広く「物事を見、考える」ことができるようになる。勉強は決して無駄なものではない。

 学校へ行き勉強するのは「就職」のため、という考え方もある。それについては山極寿一京大教授が毎日新聞の「時代の嵐(2013.3.31)」に書いていることが参考になる。「高校生たちがもし、研究者という職業に憧れて科学をやろうと言うのなら、それは間違いだと私は思う。科学は職を得るために志すものではないからだ。新しい発見をしたい、未知の世界を見たい、常識を変えたいという気持ちが科学への興味を高めるのであって、科学が職業を約束するわけではない。」更にこう続けている。「ひょっとすると、大学入試をゴールとする小、中、高校を通じた受験勉強が、成績重視の競争意識を駆り立てているのかもしれない。出された問題の正解にいかに早くたどりつくかが成績を左右し、その競争に勝つことがいい進路と将来につながるという考えが蔓延している。いい成績は優秀な研究者の道を開き、個人に栄誉をもたらすとの錯覚を生み出してはいないだろうか」。
 世の中には多くの学校がある。小中高の初等中等教育を経て大学(院)で高等教育を受ける我が国の教育体系は過度に「単線化」している。そのために山極教授の言う「いい進路と将来につながるという考えが蔓延」する結果になっているのではないか。しかし実際は「いい進路を通じていい職業に就く」ための学校ラインと「研究し学問をする」ラインのふたつがある、と考えた方がいい。それは学校別でもあるし同じ学校の中にもある。そして今の我が国はどちらかといえば「職業に就く」ための学校の方が圧倒的に多いかもしれない。その証拠として世界標準の大学ランキングで上位に入る大学が数校に過ぎないという現実がある。
 学校へ行き勉強するのは就職のためだ、と考えるのも間違いではない。しかしそうでない勉強―学問をするのは、もっと別のことのため、だということを知る必要がある。《続》

0 件のコメント:

コメントを投稿