2013年9月23日月曜日

老いを生きる(三)

 吉本隆明の「老いの超え方(朝日新聞社)」は老いを思想として捉えており教えられることが多い。以下は「老い」と「死」に関する抜粋である。

 『老い』と『衰え』は、本質的には関係ないと考えてもいいんじゃないでしょうか。しかし、老いている本人にとっては『老い』と『衰え』が切り離せない問題になる。(p215)。老齢者は身体の運動性が鈍くなっていると若い人はおもっていて、それは一見常識的のようにみえるが、大いなる誤解である。老齢者は意思し、身体の行動を起こすことのあいだの『背理』が大きくなっているのだ。言い換えるにこの意味では老齢者は『超人間』なのだ。これを洞察できないと老齢者と若者との差異はひどくなるばかりだ(p125)。老齢化とは肉体と精神のバランスが崩れることなんですね。(p118)。老人の持っている肉体的衰え、惚けというか精神的衰えは、どちらも単独ではないんです。精神科の医師に言わせれば、老人はみんな精神的に病んでいる。その病は精神的な衰えなのか、肉体的な衰えなのか判断しにくい。逆に言うと、老人の病気あるいは病的な状態や肉体的な衰えの治療は、整形外科的な療法でも精神的な療法のどちらでもいいんです(p119)。
 
 高齢になって病院へ行ったとき「歳のせいですね」と医師に言われた時ほど腹立たしいことはない。本人も「衰えた」という自覚は十分にあるが「老い」とは思いたくない気持ちがどこかにある。そんな繊細な気持ちを踏みにじる無神経な言葉を吉本は見事に反論してくれている。高齢者は「『超人間』なのだ」という意識が社会に浸透すれば高齢者と世間のギクシャクした一面は払拭されるに違いない。

 (ボーヴォワールは「老い」という著作の中で)じぶんが死に対する悲しみをいくぶんか和らげられるようになったのは、死を世界における不在だと考えられるようになってからだといっています。たとえば自分たちは日々不在を体験している。かって友達であった人がなくなっているとき、かって父親や母親であったとか肉親であった人がなくなって、今や不在である。(略)このように考えてゆくと、人間の存在が世界における不在を絶えず体験しながら生きているようなものだ。そして不在がすべてをおおいつくしたとき、それが死なんだと考えるようになって、じぶんは「死」とか「老い」とかに対する恐怖や悲しみを和らげられるようになったと言っています(p263)。(フーコーは)健康を基準にして、次にやってくるのが病気であり、その果てに考えられるのは死である、というようにひとりでに思い込まされている。(略)しかし本当はそうではないのではないか。死というのは何かといえば、病というものと、人間の生きるということを底辺とする三角形を考えるとその頂点に死が絶えずあって、そこから絶えず照らし出されることによって、われわれは生きているという言い方をしています。だから死はいわば生の意味を分析する最大の分析者なのだ。(略)死というものを頂点として、そこから照らしだされた人間の生きるということ、それから病気というものの原理を考えてゆくと、そこで人間の生は十分に照らしだされるのだという言い方をしています(p264)。死を迎える心構えというのは、これは自分はまだ経験していないことだし、また、もっと言いますと、わかりきったことなんですが、自分の死というものは自分のものではないんです。(略)自分の葬式は簡単にしてくれとか、(略)そんなことは余計な心配だと思います。死は他人のものなんだから、他人がどうしようが、そんなことは僕が何か言うべきことに属さないと思っているわけです(P266)。

 「終活(死への記録と死後の諸々の処分)」が少し前持て囃されたとき、違和感を持った。死が生の延長であり自分のものであるという考え方が底流に有りそれに我慢がならなかったのだ、ということがこの書を読むことで理解できたのは望外の喜びであった。

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