2013年9月9日月曜日

情報とどう向き合うか

  本を読むことは、自分の頭ではなく、他人の頭で考えることだ。
 悪書は知性を毒し、精神をそこなう。
 なんとも刺激的なアフォリズム(格言)だが、これは19世紀の哲学者ショーペンハウアーの「読書について(光文社古典新訳文庫)」にある言葉だ。更にこんなふうに続いている。
 他人の考えをぎっしり詰め込まれた精神は、明晰な洞察力をことごとく失い、いまにも全面崩壊しそうだ。/悪書は役に立たないばかりでなく、はっきり有害なのだ。/多読に走るべきではない。精神が代用品に慣れて(略)自分の頭で考えて歩むべき道から遠ざかってしまわないようにするためだ。(略)読書のために、現実世界から目をそらすことがあってはならない。
 
 情報化時代のただ中にあって我々は情報の洪水に溺れそうになっている。メディアも多彩で新聞・雑誌・テレビ・ラジオをはじめとして書籍(本)、教科書、チラシ、フリーペーパー更に仕事上の各種の印刷物などもある。最近はIT情報も多く、インターネットにメール、フェースブックやLINEなどのSNS情報の交換にゲームと情報だらけである。
 印刷物がそれまでの聖職者や政治家、学者などの一部の限られた人のものから一般化し雑誌や新聞の発行もあって今と様相は異なるが、ショーペンハウアーの時代も情報過多の時代であった。そんななかで情報に流されないためにはどうすればよいかを彼なりに示唆したのが最初の言葉になったのである。
情報を選択して「いい情報」だけを見るようにしなさい、というのが彼の教えであろう。しかしどうして取捨選択をすればいいのか、
 それについて彼はこんなふうに言っている。「良識や正しい判断、場をわきまえた実際的行動の点で、学のない多くの人のほうがすぐれている。学のない人は、経験や会話、わずかな読書によって外から得たささやかな知識を、自分の考えの支配下において吸収する」。少々失礼な表現だが要するに、知識を鵜呑みにせずに「自分の頭で考えなさい」と言っているのだ。

 彼は更にこんなことも言っている。思想家は(略)たくさん読まねばならないが、(略)自分の思想体系に同化させ、有機的に関連ずけた全体を、ますます増大する壮大な洞察の支配下におくことができる。∥思想体系がないと、何事に対しても公正な関心を寄せることができず、そのため本を読んでも、なにも身につかない。なにひとつ記憶にとどめておけないのだ。
 テレビに出てくるコメンテーターなど「物識りタレント」が『知ったかぶり』で振りかざす知識に信用が置けないのは彼らに専門的な『思想体系』がないから『知識のツギハギ』であることが我々にも見え見えだからに違いない。
 彼の言葉の中で最も現代にあてはまるのが次の文章だ。「ルソーは『新エロイーズ』の序文に〈名誉心ある者なら、自分が書いた文章の下に署名する〉と書いている。この逆も言える、すなわち〈自分の書いた文章の下に署名しないのは名誉心なき者だ〉。(略)少なくとも名誉心をもつ者なら、名誉にかけて責任を取るべきだし、名誉心のかけらもない輩すなわち匿名・偽名による発言は、無効にすべきだ」。ネット時代を見越したような言葉ではないか。

 饒舌な者は、なにも語らない/愚鈍と無作法はたちどころに広まる。/無知は人間の品位を落とす。しかし人格の下落がはじまるのは、無知な人間が金持ちになったときだ。/誰だって、判断するより、むしろ信じたい(セネカ)。
 彼のアフォリズムは止まるところを知らない。

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