2014年6月23日月曜日

ある先人への追憶

 先日友人Y君の奥から句集を頂戴した。中京(京都)の奥様方の小さな結社の句集なのだがその完成度の高さに驚かされた。最近友人知人の著作を戴く機会が多く句集も少なくないがそれらと比較してもこの句集のレベルは相当高い。しかしヨクヨク考えてみればなにも不思議なことでなく彼女らは30年から40年近く句作に精進しているのだから定年後始めてせいぜい15年足らずの人たちより上級なのは至極当然なのだ。この句集のもうひとつの優れたところは同人各人の句集の前書きに「句作の要諦」がさりげなく表されていることである。「ある日突然、登也先生に『Kさん、自分の生活している周囲のことに、気をつけて見たことがあるか』と聞かれました」「この頃やっと言葉が自分のものになった様な気がする」「『俳句はあたたかさや』が父の口癖だった」等々。俳句は写生であり、言葉を研鑽してレベルアップを図り、透徹した人間愛を育むことで句作に厚みと深みが備わってくる、と登也師は門人たちを指導したのであろう。今「人間愛」と書いたが「あたたかさ」は「愛」と等値ではない。「だから私は、孔子の『己の欲せざるところを人に施すこと勿れ』という言葉を、他者に対する東洋人の最も賢い触れ方であるように感ずる。他者を自己のように愛することはできない。我等の為し得る最善のことは、他者に対する冷酷さを抑制することである」という伊藤整の言葉(「近代日本における『愛』の虚偽」より)が「あたたかさ」に最もふさわしい、登也師の伝えたかった内容だろうと思う。
 
 登也(たかや)師というのはこの句会の創設者で平成7年に亡くなられているが私にとってかけがえのない先輩であり年の離れた友人でもあった(友人と呼ぶには偉すぎたが、親しく遊んでもらった高校生の頃「おっちゃん」と気安く呼ばせて頂いたので気分は「友人」であった)。彼―石本登也さんが脳梗塞で倒れたことを大分遅くになって知りお見舞いがてら訪なったとき、不自由な左手でものした書を頂き表装して今でも折々に見ることがあるが、とてもそんな状況で書かれたとは思えない見事なものだ。そして、その時この人の偉大さを知った。70歳を超えていつ、どんな病魔に襲われるか知れないが、そのときの身の処し方として彼の姿は最も上位において覚悟を模索している。
 私の高校時代は実家の「古い体質」への反抗の時期であり「逃避」を絶えず試みていた。そのとき暖かく受け容れていただいたのがY君の母君と「おっちゃん」であった。もしこのふたりの「逃げ場所」がなければ今日の私はなかったであろう。感謝している。私の知らない「厳しい」指導が行き届いていたからこそ門人に彼の教えが体現されているのだろう。いまにして彼の教えを仰げなかったことがうらめしい。
 
 ところで俳句の結社は800とも1000ともいわれて盛況だがこれは正岡子規におうところが大きい。しかし彼が「歌よみに与ふる書」で古今集批判を激烈に行ったが故に、そして明治維新の西欧文化の急激大胆な輸入と相俟って、江戸期以前の我国伝統文化が著しく排除・否定されてしまったは否めない。万葉集に偏重した和歌観によって古今、新古今集で完成された「和語」の系譜は省みられなくなったし、我国文学の正統である漢詩文もほとんど忘れ去られている。こうした風潮が「漢文訓み下し文」や「やまと言葉」の衰退をもたらし「文化の断絶」を招いているが、そのことを『危機』と捉えるメディアも少なくIT時代の「短文・思いつき文」が全盛である。そんな時代だからこそ「俳句」という「ことば磨きの文芸」が大いに見直されていい。
 
 「押小路句集」より私好みを数句。
 飛火野に夏至の太陽現るる/金屏に立ちて百寿の気迫かな(籔田洋子)
 能登の温泉に一族揃う去年今年(こぞことし)/遠くから白雨の脚の見えて来る(石本かなえ)
                                        ―合掌―

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