2014年6月2日月曜日

グローバリゼーションの功罪

 トルコで200人以上が死亡する炭鉱爆発事故があり、少し前には韓国旅客船沈没事故で300人以上が死亡・行方不明になっている。いずれも安全を軽視した利益至上主義のもたらした痛ましい事故といわれている。2008年の金融危機による先進国の経済破綻を中国を中心とした新興諸国が世界経済を牽引することで世界不況に陥る危険を防いだ。これで先進国が景気回復すれば世界経済はグローバリゼーションの効果によって「先進国と新興国の均衡ある発展」に向かうに違いない、という期待を抱かせた。ところが昨年あたりから新興国経済が変調を来たし先行きに暗雲が垂れ込めてきた。
 
 思えば先進国はあまりにも性急に「グローバリゼーション」を追求しすぎたのではないか。我国は黒船の襲来によって開国し西欧先進国による資本主義化の荒波にさらされたが、それでも「識字率」が高かったうえにまず軽工業化、次に広く製造業を、そして重工業化と約100年の時間的余裕を与えられたからこそ今日がある。米ソ冷戦終結後の1990年代初頭を「グローバリゼーション」の端緒としG8がG20に改組された1999年から本格化してきたと考えるとその歴史はまだ20年に過ぎない。
 最新の開発経済学の知見(大塚啓二郎著日本経済新聞出版社刊「なぜ貧しい國はなくならないのか」)によれば「経済発展のためには人的資本やインフラなどのストックが重要で膨大な時間と資本が必要」だと教えている。「(貧困国の)支援は人口の50~80%が従事する農業または農村の発展なくして貧困削減はありえない」にもかかわらず農業支援をなおざりにして工業製品のサプライチェーン化のためのインフラ整備と工場設置に集中投資してきた。「要するに、人的資本、 物的資本、インフラ、知的資本に乏しい途上国が、世界の他の国々と国際貿易を通じて競争しようとすれば、非熟練労働のコストが安いことを利用して、非熟練労働集約的な産業を発展させて輸出を図る以外に選択肢は無いということである」という途上国の発展段階を無視した現地投資を繰り返したのだ。「途上国政府、国際機関、先進国政府が効果的な支援のための国情に応じた開発順序」を丁寧にすり合わせる手続きを省略して先進国企業主導の野放図な投資に任せておいたのでは途上国の「均衡の取れた」「持続性のある」開発・成長が望めないのは当然であろう。
 
 更に考える必要があるのは「アメリカ型自由・資本主義的体制」を唯一の価値基準として押し付けることが途上国にとって「本当に幸せな選択」かということである。我国は二度の『価値転換』を経てきた。「明治維新」と「戦後」である。『転換』と書いたが見方によれば『廃棄』であり『断絶』である。現在の我国の文化が明治以前のそれと『継続』しているということが当然のことのように思われているが本当にそうだろうか。卑近な例を考えると、展覧会へいって屏風や掛軸に書かれた流麗な「書」を読むことのできるひとが何人いるだろうか。森鴎外や夏目漱石、樋口一葉の小説を原文で読みこなし愉しむことができるだろうか。新聞は読まずテレビはすでに古く、PC、スマホ、タブレットのYouTubeやニコニコ動画で情報収集しゲームとLINEでつながる社会が「快適」だろうか。
 
 今の我々と似たような立場にいた明治維新の文明開化を指導した西欧人たちは次のような悔悟と反省を述懐している。「科学と工業と啓蒙的理性の信奉者たる十九世紀の西欧人が、日本と云う異文化の形をとって浮上した異時間つまり、前近代を契機として、近代西欧文明の根本性格を反省している例を、私たちは先ずオールコック(初代駐日英国公使)において見出すことができる。(略)『アジアが安息と瞑想をその生活の最上の要素と考え、いっさいの変化と進歩に反する夢想的な安息を最高の幸福と考える』のに対して、ヨーロッパ人は『どうあってもいそいで前へ進もうとする』。このような西欧の進歩的文明と接触することによって、アジア人の『生活に不調和と混乱が生じ、この世の苦労が押し付けられ、自分がもっともよいと思うように生きる権利のために戦わなければならぬことになる。それは、彼らの性質と思考と存在のいっさいの習慣にとっていまわしいことなのだ』(渡辺京二著「逝きし世の面影」より)。

0 件のコメント:

コメントを投稿