2015年7月3日金曜日

新しい幸福観

 戦後70年である。我国の首相は「70年談話」を出すそうだが私たちはここで一度踏み止まって、「幸福とは何か?」について地に足の付いた考えをしっかりとまとめることが大切なのではないか。何故なら、古い世代の「幸福観」が大きく揺らいでいるのにそれに代わる新しい「幸福観」を見出せていないでいることが国全体に閉塞感をもたらしていると思うからだ。
 
 戦争が終って、食うものも住む家も無い中で親たちは懸命に働いてくれた。子どもたちは満足な教科書もなかったけれど学校へ行くのが楽しくて休まず学校へ通った。唯一嫌だったのはDDTという白い粉末殺虫剤を頭から体中に吹き付けられることだった。住宅環境が悪く虱や蚤が体と言わず頭にも湧いていたからだ。
 朝鮮戦争で豊かさへの一歩を踏み出した我国経済は高度成長からバブル景気を経て今世紀の直前から永いデフレに落ち込み 最近になってようやく浮上のキザシが見え出した。
 とにかく食えればいい、から小さくてもいいから「我が家」に住みたいに変わり、いつのまにか一つでいいから「ブランド品」が欲しいが一般的になっていた。
 食えればいいが「幸福を約束する商品リスト=幸福のガイドライン」に置き換わった頃から世の中がおかしくなってきた。家族のために「ガイドライン」を買うことが「幸福のあかし」と誰もが考えるようになって、ところが「ガイドライン」に次から次へと新しい商品やサービスが追加されるようになって、何時まで経っても「幸福」に満足できなくなっていった。(白黒)テレビ・洗濯機・冷蔵庫がカラーテレビ・クーラー・カー(自動車)に代わり最近ではデジカメ・DVDレコーダー・薄型テレビがデジタル三種の神器となっているように「ガイドライン」は止まることが無い。ガイドラインがこの状態では幸福の追求は永遠に終らないものになってしまうから、絶えず、どこかで、欲求不満を抱いている。
 食えればいいとか病気を治したいという生存の絶対的な欲求を充たす「生理的欲求」から、より便利より豊かなものに代わり、所有することで他人に認められるブランドへと物への欲求が変わる一方で、ネット社会になってネット仲間から仲間はずれにされないようにとか、高齢社会で独居になって社会から見捨てられないような生き方がしたい、という「社会的承認欲求」へ社会が大きく変質している。
 
 近代社会は理性に信頼を置いて「理性によって究極の勝利を迎えるという文明化された人間の信仰、安全な現在と保障された未来を信じることで生まれる幸せな気分が生じた」時代であった。「ほとんどすべてのことが、毎年、良いか、さらに良くなっているといわれていた」。「大多数の人の人生が、年ごとにもっと快適に、さらに豊かになると思っていた」。だから、シャープやパナソニックの屋台骨が揺らぎ東芝が不正会計で存在が危ぶまれ東洋ゴムが検査データを不正改ざんする等という事は思いもよらなかったのだ。
 食えればいい、という時代をとっくに通り越して「豊かな時代」も終焉し、今や「競争と成長」の時代から「低成長と格差」の時代に、我々「成熟国」は変貌している。(にもかかわらず我国政府の「財政再建策」は成長に力点を置くという。)
 グローバルに考えれば我国を初めとした「先進成熟国」と中国・インドなどの後発「中・低開発国」が同じ「競争と成長」という価値基準を中心的価値として国際標準を樹立しようとしていることは誤りではないのか。論を飛躍すれば現国会で審議されている「安保法制」もつまるところ「競争と成長」の「調整」を軍事力で行おうとする論理の延長線上にある論議だと思う。
 
 理性を信奉して絶えざる進歩を目指し「競争と成長」による「豊かさ」を追求してきた「古い世代の幸福観」は完全に存立基盤が揺らいでいる。阪神大震災、東日本大震災を継起として「絆」が見直されている今こそ新しい「幸福観」を模索する時期だ。
 新しい幸せ、生きるための最低限の欲求が充たせれば「お金が儲からなくても自分の働きで他人が喜ぶことを実感する仕事」例えば有機野菜を栽培する人などは「新しい幸福観」をもっている人といえるであろうし、「人がつながりを確認し、お互いに承認しあう。そのようなシステムが広がれば、経済的豊かさとは別の次元で幸福を実感することができる」という考え方もこれからの幸福を模索する上で有効なものだと思う。
 
 戦争は人類の歴史と同じぐらい古いが、平和は近代になって発明された。(ヘンリー・メイン)
 
この稿は、ジグムント・バウマン著山田昌弘訳「幸福論」、「日経・やさしい経済学/幸福とは何か・山田昌弘」を参考にしており、上記のカッコ内の引用はこれらからのものです。

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