2015年8月16日日曜日

お盆雑感

 「巨大化する国力と国民の平均的な貧しさ」は中国最大の「不安定な危険因子」であり現体制が続く限り克服できない課題として作用するに違いない。そのうえ「中華思想に基づいた覇権主義」は国防費の不断の増大を要求するに違いなくこれが中国経済にボディブローのように効いて疲弊を齎す可能性が極めて高い。キャッチアップ経済を卒業した経済は「生産性の向上」が至上命題だが、投入労働力の低下(生産年齢人口の減少と高齢化)と政府系企業の非効率を温存したままでは実現に疑問符が付く上、拡大する格差は国民の生産意欲を減退させその不満は反政府紛争の激化として「不安定要因」となるに違いない。
 今年の中国は表に現れる現象に惑わされず、その底に沈殿していくマグマの動きまでを見通す沈着な分析力の問われる一年になりそうだ。
 
 これは年頭の当コラム「中国を考える」の結語からの引用である。このコラムを書いたのは中国経済が変調の兆しを見せているにもかかわらずマスコミを初めとしたメディアの論調が、中国共産党一党独裁の現体制がいささかも揺るぎないもののように見ていることに危うさを感じたからである。
 今週世界経済を攪乱した「中国元の切り下げ」が象徴する中国経済の変調は、この直前の中国株の暴落時(代表的な上海総合指数は6月中旬に7年ぶりの高値をつけた直後に失速し7月8日には直近ピークから3割超も急落したに見せた中国政府のなりふりを構わぬ「市場介入」による「株価維持策」と同じく中国政府の危機感を露にしている。習近平総書記2年前から強力に進めてきた「トラもハエも」の「反腐敗」運動も放置すれば現体制の屋台骨を揺るがせかねないという危機感に駆られたものであり、更に今年発足したAIIB(アジアインフラ投資銀行)もこうした危機感に根差した一連の中国政府の延命策と見るのが正鵠を射ているに違いない。
 
 独断すれば、中国政府は急速な「体制変換」によって『国のサイズ』が異常に拡大したことと『国民一人ひとりの幸福』のバランスを調整することに失敗したのだ。というよりも、歴史的にそうであったように中国の為政者にはそうした視点が欠如していると言った方が正しいのかも知れない。格差の拡大と政府系企業の非効率の温存、そして何よりも過大な軍事支出が「資源配分」を歪めてしまった結果、『需要不足』を齎し「経済破綻」を来たしつつある。そのため『海外需要の取り込み』が唯一の『突破口』となり、人民元の切り下げによる「輸出増」とAIIBによる「アジアインフラ投資」の『優先的占有構想』となって表れたのである。折りしも「天津市爆発大事故」が発生したが、これも「安全コスト」を十分に懸けなかったことによる事故だとすれば、「前のめり」の中国経済の招いた必然的な結果であろう。
 「過大な軍事支出」の国にもたらす悲劇は、旧ソ連の崩壊とアメリカの近況に明かである。
 
 安倍晋三首相の「戦後70年談話」が出されたがこれについてふたつの『視点』を呈してみたい。
 ひとつは出されるまでのマスコミ等の論調である。歴史認識について「植民地支配と侵略」「痛切な反省」「心からのお詫び」のキーワード三点セット』を使う使わないとあれこれ予想していたが、国語の問題―言葉の問題として「植民地支配と侵略」を認めておいて「痛切な反省」「心からのお詫び」を出さないことはあり得ないということだ。もし「反省とお詫び」を省いて「侵略」を認める歴史認識を発表すれば、日本人以外のすべての人びとは「侵略」という文言は表面的なもので安倍首相の『真実の歴史認識』にはなっていないと見抜かれるに違いない。「侵略」という言葉はそういいうものとして「歴史認識」するのが世界的正統なのである。
 最も残念なことは「原爆投下」についての認識が余りにも世界史的視点からはずれていることだ。『原爆』が『武器』として使用されたことによって『戦争』というものの意味が根本的に「転換」したことを何故世界に向って訴えないのだろうか。国際紛争を解決する手段として戦争を用いないという「不戦の誓い」は世界的に共有されているが、それにもかかわらず原爆投下から70年経ったいまも未だ「人類の知恵」としてこの『悲惨』な歴史的事実が生かされていないことへの『不満と苛立ち』を、世界に向って何故『宣言』しないのか。それこそ唯一の被爆国日本にのみ許された責任であり権利でもあると思うのだが。
 
 安倍晋三総理が偉大なる祖父・岸信介元総理、ノーベル平和賞受賞総理・大叔父佐藤栄作を凌駕する名宰相として歴史的評価を受けたいと真に願っているならば、『被爆国の総理』として『核廃絶』を「70年宣言」で訴えれば間違いなくそれを達成できたであろうに、その唯一のチャンスを逃してしまった。 
 

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