2015年8月8日土曜日

言葉のリアリティ

 絞首刑が執行されるとき執行吏三人が同時に執行ボタンを押すと聞いたことがある。誰が実際の死刑執行者であったかを「曖昧」にすることで執行吏の『罪悪感』を緩和するための処置だと言う。人権意識が高まり例え「刑罰」であっても「殺人行為」への「忌避意識」は抑えがたく、現在では先進国で死刑制度を残置しているのはアメリカと日本くらいになっている(中国、北朝鮮には制度があるが韓国は廃止している)。
 
 「死刑」は「みせしめ」の側面が強い制度だった。「残酷」を演出するために処刑方法に人智が凝らされてきた。石川五右衛門の「釜茹」もそのひとつだし「切腹」も死に切るには困難な方法だったから後に「介錯」が行われるようになる。フランスの有名なギロチンにしたところで刃物の精度が悪ければ一撃で絶命することは無かったかもしれない。磔刑は大概槍で突き殺すが「ひと槍」で絶命することはほとんどなかったに違いないし何人もの執行人が切れ味の悪い槍で幾度も突き刺すこともあっただろう。有名なローマの闘技場でのライオンと人との闘争や人間同士の殺し合いなどは強い「祭事性」のある一種の「見世物」であったことはよく知られている。書物によれば車裂き、鋸挽き、釜茹、火刑、溺死刑、石打ち、首吊り、内臓抉り、四つ裂きの刑、凌遅刑」などその執行方法は多種に及んだ、とある。
 人権意識の広まりとともに処刑方法は「短時間化」し現在の絞首刑であったり電気椅子、ガス室など、苦痛が少なく即時的に死に至る方法が用いられるようになった。それと同時に祭事性が排除され「非公開」にもなった。
 「基本的人権」が権利として社会的に承認され「人権教育」が行われるようになった近代国家の市民には「ひとが人を殺すこと」への「罪悪感」が強く植えつけられている。
 
 安保法制の見直し論議で戦争について語られることが多いが、そこで交わされる『戦争という言葉』のイメージにリアリティはあるのだろうか。国会の論戦やメディアでの論議の際には「戦略」や「戦術」として語られることが多く、仮想敵国との交戦が中国の脅威や北朝鮮の暴発への「個別的自衛権」更に同盟国との「集団的自衛権」の行使として戦争が語られるが、そこでは我国の自衛隊員が仮想敵国の兵士を殺傷し又我国の隊員が敵国によって殺傷される『総体』としての『戦争』というイメージはほとんど無く、国家という『非人格』なもの同士の勢力争いであるかのように『イメージ』される。しかし戦争は「ひとと人との殺し合い」に他ならない。
 それにしても、まだ、我々のイメージは、江戸時代の刃槍での対人交戦や火縄銃的な銃器での合戦か、せいぜい第二次世界大戦時の(今から比べれば)殺傷能力の弱い銃器での交戦程度のイメージに止まっているのではないか。若いゲーム好きの子ども(おとなも)たちならゲームの映像でしか戦争のイメージは具体的になくて、ひょっとしたらそのイメージの底には「リセット」して『再現可能な生命』が『刷り込み』として深層心理に残存し「戦争」というイメージが形成されていて、『柔らかくフワフワした』現実感の稀薄な感覚で戦争を受け止めている可能性も否定できない。
 
 最も殺傷能力が強い兵器は「原子爆弾」である。その被害の残酷さは我国が世界で唯一経験し『言語を絶する』ものであることは日本国民の共有するところである。死んだ人の死に方も、生き永らえた被爆者の酷(むご)さも、次世代への影響の悲惨さも我々は十分に『経験』した。
 『次の程度』の兵器がどんなものかは専門家に具体的に教えてもらうしかないが、イラクやアフガニスタンからのアメリカの帰還兵の自殺が夥しい数にのぼっていることや、後方支援しか経験の無い我国自衛隊の帰還兵の28人が自殺しているという事実からも、現代の兵器の殺傷能力の悲惨さは十分に想像できる。PTSD(心的外傷後ストレス障碍)として心に重大な損傷を与えずには置かないほど、殺傷状態は『残酷』なのだ。
 最新の兵器は「無人爆撃機」で戦争の残酷さの緩和策として考案された『善後策』であり、又一方では戦争請負企業による、企業に就職した『傭兵』の職務としての戦争という「緩和策」も用意されている。遠隔地からの『ボタン戦争』、無人爆撃機、傭兵。すべて戦争の『ゲーム化』による罪悪感の『希薄化』に他ならない。
 
 3.11東日本大震災の報道で被害のすべてが映像化されたわけではない。津波の威力は肉親でさえ判別不能なほど遺体を損傷していた。紛争地帯へ潜入した現地特派員の映像が無差別にテレビに映し出されることはない。テレビ局が視聴者への衝撃度を忖度し『選別』された映像が提供されて我々の『イメージ』は『柔らかくフワフワした』現実感の稀薄なものに『成型』されているのだ。
 
 自然であれ、戦争であれ、医療でさえも『暴力』による死は『残酷』である。
 そして残酷な『死体の累積』が戦争の『リアリティ』なのである。
 
 戦争は人類の歴史と同じぐらい古いが、平和は近代になって発明された(ヘンリー・メイン)。
 
  
 
 
 

 
 
  
 
 

0 件のコメント:

コメントを投稿