2015年8月23日日曜日

理屈抜き

 岡本かの子に嵌っている。画家岡本太郎の母にして漫画家岡本一平の妻であり大正昭和の歌人、小説家として確たる地位を有している。1889年生まれ1939年没だが小説家として活躍したのは晩年の数年にすぎない。しかし没後遺作として発見された小説が夥しい数に上り習作時代の研鑽が半端でなかったことをうかがわせるがそれは文章に表れており、いわゆる『職人技』の巧さが尋常でないことで分かる。およそ彼女の文で神経の行き届いてないものは一行、いや一句たりともないと言っても過言ではない。まだ全集の三分の一も読んでいないがじっくり玩味したいと思っている。
 
 彼女の『女体開顕』にこんな一節がある。「意味のあるものは、その意味の帯びるものが価値として通用する時間内だけが有効で、あとはふい原文は傍点になる。意味をつけないものこそ人世そのものが混沌としてゐるだけ藝としても寿命があるのではなかろうか。意味が空地なだけに、いかなる高貴性をも、いかなる美しい夢も勝手にそれに被(かず)けられ、洗濯内職のおかみさんはその洗濯の労苦を忘れ露店商人の娘はその露天の番の辛苦を忘れて陶酔に浸れるのではあるまいか。ちえー りゆう、こん こん、ぢやちえこんちえ―だけが僅かに彼女等を現実から奪って、夢の国へ運んで行く。(略)ちえー りゆう、こん、こん、ぢやちえこんちえのごときものだけが彼女等を金屏風をうしろに、錦の褥、暇に明かして遊藝を遊ばさるる何様のやうにも自らを思ひ做さして呉れる。思へば摩訶不思議な、ぢえちえこんちえではある」。
 ぢやちえこんちえ、というのは二弦琴などの明清樂の譜の音符の符牒でシナ語そのままである。だから習っているおかみさんや娘さんには意味は分かっていないが符牒に応じて弦の音程が決まっていてその音を押えているのである。同様のことは日常にも少なからずあって例えば般若心経の最後に「ぎゃあていぎゃあていはらぎゃあてい はらそうぎゃあてい ぼじそわか 般若心経」とある「ぎゃあていぎゃあてい―」は意味のない呪文のようなものでインドの原語そのままの「音」を引き写したものである。意味も分からず大声で三度唱えながら数珠を擦り上げる音と渾然となった中にいると頭が真っ白になって自分が消えて陶然となる。意味を知り意味を考えながらではとても法悦境には到りえない。
 今の世の中は「意味」を求め過ぎ考え過ぎている。だから「拡大解釈」などという曖昧模糊とした「誑(たら)し」の術を使って国民を欺瞞するような行為が罷り通ってしまう。
 
 理屈抜きでひとを信じるということも少なくなってしまった。「鳳作が一掴み掴み取った銭の欠損があるから鞄の中の掛の集まりが帳面と合う筈がない。しかし菊翁夫妻は鳳作を疑わないのであった。この老父妻は鳳作のみならず他人に疑ひを持つことゝ嫉むこととは生まれ付き性格に欠いてゐるやうにそれをしない。恐らくそれをすることは彼等の粗い頭脳の皺には負担になるのでもあろう。口喧嘩こそすれ、いつも陽気で、いつも屈託のない暮らしもこの感情の方面を封貼りしたためでもあらう。まして鳳ぼん原文は傍点は彼等に取っては自慢の少年である。気にもそんなことには思ひ取らない」。これも先の小説の一文だが、養子に貰い受けた頗る出来の好い息子を「有り難い」と心底思い込み尽くし抜く老夫妻は更に「二人とも何を措いても『他人原文は傍点さん』のためにたヾ好くすることが頭を複雑に使わずして済む処世上第一の信条だった。世間では菊翁の気軽と器用を目がけて壁の腰張りを始め、種々の雑用を頼みに来た。すると老妻までが、『さあさあ他人さんが先じゃ』と、菊翁を役立たせることに駆り立てた。」という生き方のひとたちである。
 何と楽な!と思うけれどもさて「お前、やってみろ」と言われて今の世の中、おいそれとできるものではない。住み難い世になったものである。
 
 しかし一方で意味も分からずただ無心に唱和していた浄土真宗の御文章「白骨の章」が最近身に迫ってくるようになった。御文章というのは蓮如上人が門徒に送った仮名書きの法語であるが、白骨の章は次のように諭している。「ひとの世ははかなく幻のようなものだ。百歳も千年も生きられるものではない、あっという間の一生である。老いやすく今日明日もわからない。」と説いたあとこうつづく。「されば、朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。既に無常の風来りぬれば、すなわち二つの眼たちまちに閉じ、一の息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李の装を失いぬるときは、六親・眷属集りて歎き悲しめども、更にその甲斐あるべからず。さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙と為し果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれというも中々おろかなりそれ故に、誰人も無心に後生一大事を心にかけて阿弥陀仏を深くたのみ参らせて念仏するのみである、と結ぶ。
 朝紅顔だったものが夕べには白骨と化す、この無常が人に世の常であることを何度と無く身近に経験して老いさらばえてきてみれば、無心で唱えた経文が有りがたく身に沁みる。これも老いの手柄であろうか。
 
 最後に『女体開顕』にある有明節の文句を引いておくので玩味されたい。こればかりは「理屈抜き」というわけにはいかないが。
 有明に、こぼす油は菜種なり
  蝶が焦がれて逢ひに来る
 もとをたヾせば、深い仲
 死ぬる覚悟で来たわいな。
     
 
 
 
 
 
 

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