2015年12月7日月曜日

歴史を感じるとき

 上賀茂神社の式年遷宮をドキュメントで見た。十月十五日正遷宮の日、深夜に宮司が権殿から本殿に御神体をお遷しする場面では真っ暗ななか数人の神職が白布を高々と両手で支え上げ御神体と宮司を囲い込んで人の目に触れさせぬよう最大の慎重さをもってしずしずと移動された。本殿へ御神体が遷されて遷宮が無事終えられたのだが神と人とのふれ合いは深夜漆黒の闇の中の束の間であるのを見て仏教と何と異なることかと感慨を覚えた。片方はきらびやかな本堂に金箔で象られた釈迦牟尼佛や大日如来像が祀られているなかでその御尊顔を拝みながらお念仏を唱えて成仏をお願いする、御本尊そのものからお恵みを間近に戴くのだからこれほど確実で有り難いことはない。それにひきかえ御神体がそもそも何ものなのか我々一般人はお目に掛かったことすらない、言い伝えとして鏡であったり玉であったり剣であると云われているがそれにしてもそれが『神様』ではない。神の魂が鏡や玉に乗り移ったのであって我々はその『依代ヨリシロ』を通じて神の霊と向き合うのである。
 この差は決定的といえる。片や『見えないものの信仰』でありもう一方は『見えるものの信仰』である。六世紀後半支配者が――欽明天皇が蘇我馬子と厩戸皇子などの崇仏派の勧めに従い(廃佛派の物部尾輿、中臣鎌子などが抗争に敗れて)仏教を神―霊信仰―に変わって「国教」に採用したのは『歴史的大転換』であったことを式年遷宮を見ていて強く感じた。
 
 仏の崇高な精神性は浮遊する霊が仏に乗りうつって生じるものではない。崇高な精神は、安定自足した美しい仏像の内部にあって、そこから外へと輝き出る(略)。その(仏像の)威力は金堂内を満たし、さらには回廊に囲まれた内部の空間を満たし、そこを聖なる空間たらしめるが、霊威が仏の像を本源とするところが古来の霊信仰との明確なちがいだ。聖なる本源が人間を超えた人間の像として目に見える形を取ってそこにある。となれば、仏教を信じることはまずもって仏の像に向き合い、像を敬うことでなければならなかったし、仏の像は敬うに足る安定性・自足性と崇高な美しさをもたねばならなかった。そして、仏像の崇高な美しさが仏像の造形を超えてまわりの荘厳の造作や建物の造形の美しさにまで及んだのが、いまに残る飛鳥美術、白鳳美術の数々の傑作のすがただ。(長谷川宏著『日本精神史』より)
 
 古代の人びとは我々のように「言葉」を多くもっていなかったし「概念語―抽象的な言葉」はほとんどなかったから「見たり聞いたこと」を正確に表現し相手に伝えることが不完全であったうえに「感じたこと考えたこと」を表現する力はほとんどもっていなかった。従って『言葉』以外に注意をはらう必要性をいまより格段に「強く広く」要求されたことはまちがいない。ということは『感じる力』を鋭敏にすることが必要になりその分『霊感』が今とは比較にならないほど強かったと想像される。
 善いものでも悪いものでも、特別の威力をもち人間に畏敬の念を抱かせるもの―、それが古代人にとっての「神」であった(同上書より)。自己と家族の安全を図るために、収穫・収獲を多くするために、外敵の襲来や自然の猛威を防ぐ「特別な威力」は『生活に必須の力』として望まれた。たとえば「旱魃や洪水」を予見する力や「病・老・死」を癒す力に対する人びとの畏敬の念は強力であった。そういう力の寄りついた『もの』は『依代ヨリシロ』と呼ばれそういう力の寄りついた『ひと』は『憑座ヨリマシ』と呼ばれ『神』として崇められた。
 卑弥呼は、神霊の寄りつく憑座ふうの人物が国々の首長の総意によって女王に共立されたものと考えることができる。神霊の寄りつくことは小さな共同体の小さな現象としても、大きな国家共同体の大規模な現象としても、信じられ、求められていた(同上書より)
 
 では何故天皇は「仏教」を採用したのだろうか。それは巨大『陵墓―前方後円墳』を建造する経済的負担を維持することが困難になったからではないか。
 憑座として神格化された天皇を頂点とする専制的な大和朝廷は天皇の死によって本来ならその権力は断絶するはずである。「巨大古墳の造営は矛盾を―危機を―克服しようとする支配階級の熾烈な意志のあらわれだったが、国王陵のさらなる巨大化と、同型の前方後円墳の『各地への広がりは、危機克服の過程が国家の権力と権威を拡大・深化する過程でもあったことを示している。/国王の死による国家支配の中断を、墳墓造営と埋葬の儀式によって埋め合わせる方策』が定型化する(同上書より)」。
 領土の拡張と支配権の拡大は有力豪族との併立を余儀なくされ政治権威の維持経費の増大を招き、巨大陵墓を天皇一代ごとに建造する経済的余力を枯渇させた。寺院と仏像で構成される仏教施設は経済的負担を飛躍的に軽減すると同時に天皇の政治的経済的権力と宗教的権威を分離することで天皇制の永続性を容易にする効果を持つ。「大仏殿の造営」は古墳時代と仏教時代の過渡的措置として理解してよいのではないか。
 
 これは思いつき―アイデアに過ぎない。しかしこのような荒唐無稽な想像力を掻き立てずにおかない『歴史の断層』を「式年遷宮」に感じた。
 京都は限りない魅力を秘めた都市である。
 
 
 
 
 
 
 
 

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