2015年12月27日日曜日

廊下の奥に

 天皇陛下が23日82歳の誕生日をお迎えになった。記者団との談話の中で次のように語られていた。
 「この1年を振り返ると様々な面で先の戦争のことを考えて過ごした1年だったように思います。年々戦争を知らない世代が増加していきますが先の戦争のことを十分に知り考えを深めていくことが日本の将来にとって極めて大切なことと思います。
 陛下は今年パラオ共和国を訪問され戦没者の慰霊碑に供花されており来年はフィリピンを訪問される予定になっている。先の大戦で戦場となった多くの国を陛下は行脚されている。表立った陳謝の言葉を表明されているかどうかは確かめていないが戦没者の慰霊碑への供花は欠かされていない。先の戦争に対する責任を「天皇」として沈思されているのであろうか。
 
 こうした天皇陛下の戦争に対する深い考えと逆行するように特定秘密保護法が制定され武器輸出三原則が緩和されて武器輸出が解禁となり、更に緊急事態基本法の早期制定を求める動きが活発になっている。これらの法案は最近の世界情勢の急激な変化に対応する必然性があって定められたのだが、運用を誤ると「平和の危機」につながる惧れを多分に孕んだ法律でもあるからその危険性を未然に防ぐために「シビリアン・コントロール=文民統制」が十分に機能するように設計されなければならない。政府(国民)の監視が弱まるとたちまち「軍隊」は暴走するという『高価な』経験をして手に入れた『賢明』さが「シビリアン・コントロール」だが、軍隊ばかりが規制の対象ではない、政府=権力もまた時として暴走する。平時の今は特に政府への統制力を担保しておく必要があり、とりわけ昨今は官邸=総理大臣への権力集中の傾向が強いからそれへの具えを怠るととんでもない事態に至る可能性が強い。ところが特定秘密保護法は保護対象となる『情報』の特定に極めて権力の『恣意』が働き易い設計になっているうえに緊急事態基本法に至っては原発事故や過酷化する自然災害への緊急対応としての政府=総理大臣の「人権停止法」的権力が拡大するばかりでなくテロやPKO(国連平和維持活動)活動の拡大解釈によっては「戦争」へ暴走する可能性が非常に高い『恣意性』が隠されている危険すらある。
 
 大岡昇平の戦争文学の傑作『野火』のなかにこんな記述がある。「この田舎にも朝夕配られてくる新聞紙の報道は、私の最も欲しないこと、つまり戦争させようとしているらしい。現代の戦争を操る少数の紳士諸君は、それが利益なのだから別として、再び彼等に欺されたいらしい人達を私は理解できない。恐らく彼等は私が比島(フィリピン)の山中で遇(あ)ったような目に遇うほかはあるまい。その時彼等は思い知るであろう。戦争を知らない人間は、半分は子供である」。
 天皇の深思と大岡の慨嘆の何と近接していることか。今の政府も財界もほとんどが『戦争を知らない半分子供』の人間で構成されている。この危うさに戦慄する。
 
 2012年日本国籍を取得したドナルド・キーンは深い日本への愛情から『日本人の戦争 作家の日記を読む』を著し山田風太郎の日記から次の一節を採っている。 
 古い日本は滅んだ。富国強兵の日本は消滅した。吾々はすべてを洗い流し、一刻も早く過去を忘れて、新しい美と正義の日本を築かねばならぬ――こういう考え方は、絶対禁物である。(中略)僕はいいたい。日本はふたたび富国強兵の国家にならなければならない。そのためにはこの大戦を骨の髄まで切開し、嫌悪と苦痛を以て、その惨憺たる敗因を追求し、噛みしめなければならぬ。/全然新しい日本など、考えてもならず、また考えても実現不可能な話であるし、そんな日本を作ったとしても、一朝事あればたちまち脆く崩壊してしまうだろう。/にがい過去の追求の中に路が開ける。
 『半分子供』の大人たちは「この大戦を骨の髄まで切開し、嫌悪と苦痛を以て、その惨憺たる敗因を追求し、噛みしめ」ただろうか、「にがい過去の追求の中」から路を開いただろうか。その中途半端さに戦慄する。
 
 戦争が廊下の奥に立ってゐた――渡辺白泉
 廊下の奥というささやかな日常生活に、戦争という巨大な現実は容赦なく進入してくる。その不安が一種のブラックユーモアとして言いとめられている。(略)昭和十四年に作られているところに先駆的な意味を持っている。(大岡信著「百人百句」より)
 夏の海水兵ひとり紛失す――これも同じ作者の句である。
 

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