2016年2月7日日曜日

ママたちの非常事態

 NHK朝ドラ『あさが来た』のある日の場面。和歌山からあさの姉はつが家出をしてあさの加野銀行に身を寄せている息子藍之助を連れ戻しに来る。取り巻く大人たちがどう対処するか興味を持ってみていると、母よのが藍之助をかばいながら筋を通して祖父や父の承諾を取り付けてから帰っておいでと諭す。いろんな解決策があるなかで最年長のよのの、古いけれども温かい愛で頑なな藍之助を納得させる物語の運びに安定感を覚えた。理屈も大事だがそれを超えた「大きな愛」の存在に懐かしさを感じるのは今の世の中にそれが稀薄になっているからだろう。「溺愛」は溢れているが「厳しい」「大きな愛」が少なくなって「排除」や「隷従」がはびこっている。大家族が消滅して核家族化して『愛のかたち』が直接的で単純化した結果だろうか。
 
 「子育て」も変化している。三世代同居が当たり前で、子だくさんで、母や祖母の手助けや「規制」があって、子どもも年嵩のものが小さい子幼い子どもをあやしたり教えたりして、家族ぐるみでしていた「子育て」が今や「母親」の『専業』になっている。最近になって「イクメン」や「育児休業」が少しは表に出てきたがそれでもまだまだで、母親の「孤立化」「育児不安」が常態化している。
 どちらが正常なのだろうか。これについては「NHKスペッシャル・ママたちの非常事態(1月31日放送)」が参考になる。700万年前人間はチンパンジーなどと枝分かれして「ホモ・サピエンス」になったのだが人類が今のように絶対的な「種の繁栄」を誇るに至った根本原因は『生殖機会』の多さにある。類人猿は1回の生殖の後5年間(嬰児が成長して独立するまでの期間)は妊娠できないのに比べて人類は毎年生殖できる。彼らは「発情期」にしか生殖行為ができないが我々人類は四六時中「欲情」できる浅ましい『機能』を具備してしまった。それはさておき人類は「多産」が自然であり「子育て」は皆でするのが普通のかたちなのだ。いまでもカメルーンなどに現存するピグミーのバカ族では家族の別なく10人近い子どもの子育てを部族全体で行っており幼児の授乳を他の母親に頼んで自分は自分の仕事をする、それがバカ族では普通なのだ。
 「共同保育」は人間にとって本能なのであって今の核家族を前提とした「母親専業」の子育ては異常なのだということを知ればあとはそれをどう展開するかを考えればいい。「地域で子育て」という取り組みももっと系統立てて多様化するほうがいいし、ネットを使った大規模な展開を模索するのもいい。勿論「父親」の参加は当然でお祖母ちゃんの知恵を大いに取り入れるべきである。そのためには「正規男性社員の働き方改革」が必須であるし「マタハラ」を絶対に許さない社会をつくらなければならない。
 現在の高齢者に偏った財政支援はバラマキを止めて「必要なところに必要な支援」を効率的にするよう改め、出産、子育て、教育―特に幼児教育に予算を飛躍的に拡大するよう國の体制を移行していく必要がある。
 母親の愛情に関わる「オキシトシン」というホルモンは逆の『攻撃性』に転化することもあり子育てに非協力的な夫への怒りやママ友同士のいさかいなどもこのモルモンの作用らしい。「子どもの年齢別の離婚率」でゼロ歳から2歳の間が圧倒的に多いのは夫の子育て参加が上手くいっているかどうかが影響している。また脳の「前頭前野」の発達が感情や暴発的な行動の「抑制機能」に関係しており幼児期の「イヤイヤ病」もこの機能の未発達のせいである。
 
 最近つくづく思うのは我々がんなに「常識」や「誤った知識」に縛られているかということだ。母親は「子育て」ができて当たり前という常識がどれほど女性の結婚・子育ての障害となってきたか。子どもができたら「退社」するものだという考え方は「会社」が家庭よりも家族よりも大事だという「古い固定観念」のせいだが、しかしそれも戦後の高度成長期にできたものにすぎない。女性家庭にこもるべきだという考え方も明治維新後のものだし、それも山の手のお役人階級から広まったもので、農業人口や自営の商売人の多かった時代は夫婦が協力して生業を守るのが当たり前だった、それがつい30年前のことだ。
 
 商談中に携帯が鳴って、「スイマセン、女房が都合が悪くなって子どもの保育園のお迎えを私がやらなければならなくなったのですが、いいでしょうか」という子育て中の若いサラリーマンを「イイヨ、早く行ってやりなさい」と上司や商売相手の先輩が思いやってやるような社会に日本が生まれ変わるのは、いつのことだろう。
 
 
 

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