行きつけの喫茶店の常連さん―Fさんが連休の間に忽然と姿を消した。あれほど喫茶店を愛し、皆との会話を楽しんでいたFさんなのに、ひと言の挨拶もなく引越してしまった。
Fさん―今年齢(よわい)94才にして頗る壮健、耳は相当不自由で歳が歳だから全身ケアが必要だがアチラの方もまだまだお盛んな愛すべきご老人である。十年ほど前に奥さんが体調を崩してからは毎日の買い物も彼の担当で料理をすることもある。介護保険のお世話にはなっているが家事全般をほとんど一人でキリモリしているといっても過言ではない。それでいて遊ぶことも決しておろそかにすることなく、今日は東に明日は西にと祭りを楽しんだり食道楽したりと「人生を満喫」していた。いつだったか40年来の馴染みの祇園のおかあさんとデートしたと嬉しそうに話していた。
顔馴染みになって話すうちに出身が同じ「西陣」であることが分かり、終戦直後(昭和21年)酔っ払った進駐軍のイタズラで「北野のチンチン電車」が堀川中立売の鉄橋から脱線した事件を覚えているかという私の問いに、「あのときなぁ、ワシその角にあった交番でアルバイトの巡査やっててな、後始末で苦労したんや」との返答には驚かされた。西陣署に爆弾が落ちましたね、そうやったなぁ、私丁度そのとき西陣署のスグ上(かみ―北)にあった防空壕に母親と一緒に飛び込んだとこでしてね、爆風で瓦やなんやかやが飛び散っていったのをよう覚えてますは。それは危なかったな、一瞬の差やがな。映画館がようけありましたね、そや7、8軒あったなぁ。西陣京極のドンツキの「千中ミュージック」の息子が同級生でしてね、10時半頃隣の銭湯へいくと小屋のハネたストリッパーのおねえさんたちが来るというので悪仲間と連れてその時間にフロ行ってましたわ。などなど。
話題が尽きなかった。二十才近く年上のおっちゃんという気安さで付き合ってくれたFさんだが、90才に手が届くころからは身近に迫った『終の棲家』のことを思案していた。一人娘が四国に嫁いでいたが頻繁に帰ってきて両親の面倒を見ることのできない事情があったようで、ここ数年近辺に次々と建設される養護施設や今はやりの「サ高住―サービス付き高齢者向け住宅」への入居も検討していたようだった。
娘さんや、特に孫をそれはそれは大事にするFさんだったから回りの者はそんな風な親娘関係がもどかしく、子育ても終ったのだから(ふたりのお孫さんがそれぞれ就職、大学に入って)娘さんがもっと両親の面倒をみればいいのにと気を病むこともしばしばであった。
そんなあれやこれやがあったFさんが娘さんのいる四国に引っ越したのだから、ヤレヤレであり喜ばしいことではあるのだがいまひとつスッキリしないのは、大層仲の良かった弟さんや妹さんにさえ連絡がなかった慌しさが不審で恨めしいのだ。連休明けに弟さんから喫茶店の女主人に「兄へ電話してもつながらない」と問い合わせがあったという。それは無いだろう、というのが回りの皆の気持ちなのだ。
考えるに、娘さんとはご夫妻でいろいろ話し合われたことだろう。娘さんも両親の面倒を見たい気持ちは山々であったに相違ない。溺愛されたお孫さんからもおじいちゃんおばあちゃんの世話をして欲しいと乞われたであろうことは十分想像できる。しかしFさん夫妻はこの歳(90才を超えて)になって又新しい環境に移るのは億劫だったにちがいない。そんな娘と両親の感情のズレがあって、やさしいFさんは娘さんの気持ちも分かるから取り敢えず四国へ行ってみよう、様子を見て、どうにも四国が肌に合わないのなら京都に帰ってくればいい。そんな事情があっての『忽然のサヨナラ』になったのではないか。そして四国移住を本心から決心したら改めて皆に挨拶もして、荷物も送って家も処分して。そんな「心づもり」ではなかろうか。
そんなことを思って納得することにした。
高齢化がどんどん進んで80才は当たり前、90才も珍しくなくなった昨今。生きている年寄りも、生きられている(?)『そこそこいい歳』をした子どもの思いもいろいろだ。なってみなければ分からないが、70才過ぎてからの住まいの移動は気が進まないものだ。今年はじめに2才年上の女性(彼女は十年ほど前福島から引っ越して来た人だった)が横浜に、娘婿の転職に伴って移住したが、気丈に振舞っていたが辛かったろうと思う。年寄りにすれば「ほっといてくれていい」と思っていても、子どもにとってはそう思い切るには覚悟がいる。
『老人ホーム』という呼び名もいやだし、ヨボヨボになった老人ばかりが集められてただ『食って生きている』(ようにみえる)だけの環境は堪らない。何世代もが同じ地域に暮らしながら、世間様にあまり迷惑も掛けないで『生を全うする』。そんなふうに老いて、生きたい。
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