2018年7月16日月曜日

演歌とは何だったのだろう

 赤いリンゴに 口びるよせて/だまってみている 青い空/リンゴはなんにも 云わないけれど/リンゴの気持ちは よくわかる/リンゴ可愛や 可愛やリンゴ
 これは終戦直後の1945年に並木路子、霧島昇が歌って流行った「リンゴの唄」である。戦後日本映画第1号『そよかぜ』の挿入歌として発表された楽曲で作詞サトウハチロー、作曲は万城目正である。ちなみに4番の歌詞は次のようになっている。「歌いましょうか リンゴの歌を/二人で歌えば なおたのしい/皆で歌えば なおなおたのし/リンゴの気持ちを 伝えよか/リンゴ可愛や 可愛やリンゴ」
 
 次に流行った唄が1947年の笠置シズ子『東京ブギウギ(作曲服部良一、作詞鈴木勝)』だった。歌詞の一部を記すとこんな風である。「東京ブギウギ リズムブギウギ/心ズキズキ ワクワク/海を渡り響くは 東京ブギウギ/ブギの踊りは 世界の踊り/二人の夢の あのうた/口笛吹こう 恋とブギのメロディ(略)世紀のうた 心のうた 東京ブギウギ ヘイー」
 
 「敗戦」という現実をどう受け入れていいか、いまだに納まりのつかない二ヶ月後の10月に公開された映画―敗戦の重み、暗さ貧しさ、苦しさを発散させるための娯楽といっても最大のメディアはラジオくらいしかなかった時期に公開された映画に庶民は飛びついた。歌手を目指した少女のスター誕生を描いた音楽映画で評価は散々だったが挿入歌「リンゴの唄」が庶民の心をつかんだのは歌詞の「無色透明の軽さ」にあったのではないか。とにかく「明るくいこう!」、唄でも歌って―ふたりで歌って、みんなで歌って明るくなろう!そうでないとやっていられない!そんな庶民の気持ちを「リンゴ」という最も庶民的な果物―それでさえ満足に流通していないし、たとえあったとしてもおいそれと買うことのできないものではあったけれども―に託して歌いあげたことがこの唄がヒットした原因だった。云ってみれば、もって行き場のない「ヤケクソ」の庶民のエネルギーは二年後の『東京ブギウギ』で頂点に達する。意味不明の歌詞に笠置シズ子のこれまでの「流行歌手」の概念をブチこわした歌唱方法。「もうええやん!」、いつまでも敗戦をひきずっていても仕方ないじゃないか。このへんでもうふっきって、前に進もうじゃないか。1947年には「配給」だけで生活を賄おうとした裁判官山口良忠が餓死するという事件もあって、「闇市」が公然と国民経済に組み入れられるという「無茶苦茶」な「先行き不透明」、だけれども何故か無性に「明るさ」だけがあった当時の「空気」。それは多分庶民がはじめて手に入れた『民主主義』と進駐軍アメリカさんの「豊かな社会」という『夢』が、あの「貧困の極み」の、けれども「皆が平等に貧困」だった(現実はそうではなかったのだけれども)「明るさ」の「真空地帯」のような当時の庶民の心情とぴったりと合致した『東京ブギウギ』だったと思う。
 
 一方こどもの歌に眼を転じると『里の秋(作詞斉藤信夫、作曲海沼實)』が1945年12月の「外地引揚同胞激励の午後」というラジオ番組で川田正子が歌って人気を博していた。
 静かな静かな 里の秋/お背戸に木の実の 落ちる夜は/ああ 母さんとただ二人/栗の実 煮てます いろりばた ∥ 明るい明るい 星の夜/鳴き鳴き夜鴨(よがも)の 渡る夜は/ああ 父さんのあの笑顔/栗の実 食べては 思い出す ∥ さよならさよなら 椰子の島/お舟にゆられて 帰られる/ああ 父さんよ御無事でと/今夜も 母さんと 祈ります
 
 これは何という対照だろうか、おとなの唄の「能天気さ」と較べて、明らかに外地で終戦を迎えた軍人の父の無事帰還を願う母子の現実と向き合った切実な心情が描かれている。この歌は戦中に『星月夜』としてつくられた歌のリメイクで、戦争協力的な部分がきれいに削除されて戦後的な歌詞に展開されている。実はここにわれわれの既成概念の誤りがある。子どもの歌である「童謡」や「唱歌」に『思想的』なものは入っていない、芸術的な詩情が描かれている、という既成概念は歴史的にも正しくないのだ。
 
 まずは明治時代の音楽教科書をつくった福井直秋の次の一文を読んでほしい。「小学校生徒は(生まれた土地をはなれたことがないから)故郷という題目は(理解できないのではないかという)人もあろうが、我現在成長しつつある処即ち故郷は此の如く懐かしいものであると云う感じを吹き込むつもりで作ったのである。郷土を愛するの念は、これ国家を愛するの念なり。郷土を思ふの念は郷土を離れた始めて沁みじみと感じられる思ひである。郷土を離れたものの愛郷の情を想像させることは調育上智育上格好の材料ではあるまいか(カッコ内は筆者が現代文に書き改めている)」。
 教育を『管理』する国家権力は現在の中国や韓国との「歴史問題」にみるように為政者の都合の良いように教科書をつくる。明治維新政府にとって「日本国」という意識を国民に自覚させ、愛国心を醸成することが必務であった。そのためには『郷愁』と『抒情』が最も効果的であろうと推定して、福井は子どもに『故郷』という概念を「吹き込み」、成人したとき「徴兵」や「派兵」で故郷を離れたときに『郷愁』という感情をもち、それが『愛国心』につながることを図って音楽教科書をつくった。更に「唱歌教育で不可欠とみなされた音階練習の導入が、実は単に音楽の領域で西洋式七音階に順応させることだけを狙ったものではなく、むしろ、発声器官を動かす訓練を通じて日常言語の発音そのものを矯正し標準化しようというかなり重要な国家目的をもって発案されていた」ことも分かっている。
 ところが福井のように遠慮深謀をもった者ばかりでなかったようで、直接的におとなの道徳観や価値観を押付けるものが多く、こうした唱歌教育に北原白秋は敢然と挑戦した。「全く其処は純真な子供の天性を歪形ならしむる、妙に規則的な、子供に縁のない、何の楽しみもない、大人の子供の為に造った一種の牢獄であった。其処では私たちの童謡と何ら関係のない唱歌というものを無理に教えられ、私たちの郷土的な自然の生活と全く違った世界の中で、全く違った大人の遊戯を強いられた。/全く無理だ、不自然だ、不自由だ、不愉快だ。今思ってもその当時の学校教育は子供の本質を虐殺するものばかりだった。」
 ところが白秋も結果的には戦争翼賛に利用されてしまったのだから国家権力というものは底知れず不気味なものであると思わねばならない。
 
 「演歌」は1960年代から二十世紀のあいだ、全盛を誇ったが今や気息奄々の状態に陥っている。まさに「高度経済成長」とともに隆盛を極め、その終焉とともに命脈が尽きたことになる。
 演歌とは何だったのだろうか。そして誰が何を『企図』していたのか。それは今後の宿題である。
本稿は『詩歌と戦争』中野重雄著に多く負っています
 
 
    
 
 
 

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