2018年7月9日月曜日

若さは素晴しいか


 ここ十年程のあいだに読んだ本の中で妙に気に入っている話が二つある、ひとつは「老子の『役立たずの木』」、もう一つは「オー・ヘンリーの『賢者の贈り物』」である。『賢者の贈り物』はこんな話になっている。
 
 デラとジムは貧しい貧しい若い夫婦です。今日はクリスマスなのにデラはジムにプレゼントをするお金がありません。そこでジムが大好きなご自慢のブロンドの髪を売ってお金を用意しようと思いつきます。おじいさんからお父さんにそしてジムが引き継いだ立派な金時計が古い革ヒモの鎖がみずぼらしくてコソコソとしか時間が見られないジムがかわいそうでならないデラは今年こそ立派な鎖をプレゼントしたいのです。
 そんなデラの思いが通じたのか髪は鎖を買うに十分な値段で売れました。短くなった髪の毛を見たらジムはがっかりするかも知れません。でも、髪の毛はスグに生え変わるから…。
 ワクワクしながらジムの帰りを待っていると階段を上ってくる足音がしました。ドアが開いて、ジムに飛びついてキスをしながらデラはプレゼントを差し出します。ジムは茫然としてデラを見つめています。「どうしたの?」といぶかるデラにジムが手渡したプレゼントはデラの美しいふさふさとした自慢の髪を飾るひとそろいの飾り櫛だったのです。
 お互いを心から思い遣ったふたりのプレゼントをオー・ヘンリーは「賢者の贈り物」と名づけました。胸が痛くなるほどの愛しさを若いふたりに感じると同時に貧しさに負けないで希望を持って明日から生きていくであろうふたりを勇気づけたオー・ヘンリーの深い思いに年長者の慈しみを感じずにはいられません。
 
 「役立たずの木」はこんな話です。 
 櫟社というやしろの神木になっている櫟(くぬぎ)の大木に匠石は目もくれません。その弟子がたずねると、「舟を造れば沈むし、棺桶をつくれば腐るし、道具をつくればこわれてしまう…。全くとりえのない木だ使いみちがないからあのように長寿が保てたのだよ」と匠石は答えました。それから何十年かたって弟子がまた櫟社を通りかかると一段と大きくなった櫟の葉陰に大勢の人がだかりがあって涼をとっています。さびしかった門前に市が立ってにぎわっています。師匠の匠石が「役立たずの木」と馬鹿にした櫟は誰にも見向きもされなかったおかげで超大木に育って、さびれた村に市がたつほどのにぎわいをもたらし立派な「村おこし」をしたのです。
 
 6月20日新幹線のぞみ車内でナタを振り回して3人を殺傷した無職・小島一朗容疑者(22は、「俺は生きてる価値がない」「自殺をする」などと4度も家出したあげく、「誰でもいいから殺そうと思った」と無差別殺人に及んだ。伝えるところでは、就職しても長続きせず、対人関係にもゆきづまった結果とみられるが、なにより両親や肉親の愛に恵まれず見放された生い立ちが彼の心を蝕んだようである。
 
 彼に、価値の多様性を説くのは簡単なことだ。しかしそれと同時に世間全体の誤った価値観を改める必要がある。『若さ』に対する過剰な価値の置き方、こんな考え方とはもう縁を切ろう、最近とみにそう感じている。平均年齢が伸びて高齢者が増えて、「アンチエイジング」などということばが溢れかえって老いも若きも「若さ信仰」に走っているが、そもそもこうした考え方が社会を狂わせているのだ。いくつまでを「若い」というかは人各々だろうが若い人たちはせいぜい30歳までを「若い」と感じているような気がする。そして若いうちに自分を咲かせたい、才能を開花させたい、そうあせっている風に思えて仕方がない。だから若いうちに自分を生かせる職を得て将来に道をつけたい、もしそれが果せなかったら自分の人生はもうおしまいだ、そんな考えに取り付かれるのも当然のことなのだと思う。
 我が身を振り返ると学校を出るころは『未熟』と感じていた。とにかく就職はしなければならないが自分に何が向いているか、まったく分かっていなかった。勤め先で、先輩に指導を受けながら実力をつけ40歳代50歳代と成熟していきたい。大体皆そう考えていたのではなかろうか。ただひとり、弁護士になった友人だけは20歳代で一人前の仕事をしていて羨ましいと思った。
 今の時代そんな悠長なことを言っておられない、企業は「即戦力」を求めている。若い人はそういうに違いない。なるほど経団連などの企業側は大学に「即戦力」を求めて、役立たずの「人文系学部」軽視の傾向がはびこっている、自分たちは人文系出身なのに。
 こうした風潮を改めないと「革新的」な商品開発や技術革命を引き起こすことは望めなくなる、ノーベル賞クラスの発明・発見はもう我国では起こらないという悲観的な意見を述べる識者が多いのも、今の近視眼的な物の見方への批判からきている。
 
 若いということに格別の意味が生じたのは明治期からで、青春もそれ以来の流行語である。江戸時代には若い奴というのは未熟者、青二才、半人前、若造でしかなかった。(略)対照のために十八世紀までを見れば、ヨーロッパ文学はドンキ・ホーテ、ガルガンチュア、ガリヴァー、などなど成熟した大人が主役を担う話が主流だった。若い未熟な者の煩悶などそもそも書くに価するテーマではなかった。(略)誠実もまたキーワードである。自分が誠実に悩んでいれば世間はその誠実さ故に猶予を与えてくれる。そういう甘えがあって、実際に世間はそれを許したのだろう。『伊豆の踊り子』の主人公は旧制高校の生徒という特権的な地位にあるからこそ成り立つ話である。中也さんだって我がまま放題、家からの送金で暮らしを支えていた。藤村も太宰も地方の名家の出だった。(略)(青春と青年は三浦雅志のいうように1986年を境に使われなくなった)若者は成熟など目指さず、煩悶することもなく、ネオテニー(幼形成熟幼態成熟)を体現してヤンキーかオタクかのどちらかになっている。
 これは池澤夏樹の『詩のなぐさめ』からの引用だが、「若い奴というのは未熟者、青二才、半人前、若造でしかなかった」という語は、おとなの確然たる『自信』の裏づけがあるからでてくる言葉である。今の大人にそれだけのものがあるのかと問われると腰がひける。
 
 若いということは皆が思っているほど素晴しいものではない、そう大人たちが若い人に自信を持って言えるようになれば、きっと世の中は変わってくる。そんな思いに到った昨今である。
 
 
 
 
 

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