2018年10月8日月曜日

渡辺一夫の『寛容論』を読む

 第4次安倍改造内閣が発足した。顔ぶれをみれば安倍一強を恃(たの)みとしたゴリ押しの論功行賞的抜擢が数々見受けられる。「安倍一強」と「格差拡大」と「分断」が蔽(おお)い被さる「閉塞観」の横溢する今こそ、『寛容と忍耐』が望まれる。そこで「ラブレー研究者にして『寛容論』の人――渡辺一夫(1901~1975、作家大江健三郎の東大時代の恩師としても知られている)」を読むことにしよう(『ちくま日本文学全集・渡辺一夫』による)。
 
 全集の中で寛容論を書いた章のタイトルは「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」という切実なものになっている。
 人間の歴史は、一見不寛容によって推進されているようにも思う。しかし、たとえ無力なものであり、敗れ去るにしても、犠牲をなるべく少なくしようとし、推進力の一つとしての不寛容の暴走の制動機となろうとする寛容は、過去の歴史のなかでも、決してないほうがよかったものではなかったはずである。(p308)
 こうした寛容にとって苦しく悲しい歴史は寛容の武器が余りにもはかないものであるからだ。 
 寛容と不寛容が相対峙した時、寛容は最悪の場合に、涙をふるって最低の暴力を用いることがあるかもしれぬのに対して、不寛容は、初めから終わりまで、何の躊躇もなしに、暴力を用いるように思われる。今最悪の場合と記したが、それ以外の時は、寛容の武器としては、ただ説得と自己反省しかないのである従って、寛容は不寛容に対する時、常に無力であり、敗れ去るものであるが、それはあたかもジャングルのなかで人間が猛獣に喰われるのと同じことかもしれない。ただ違うところは、猛獣に対して人間は説得の道が皆無であるのに反し、不寛容な人々に対しては、説得のチャンスが皆無ではないということである。そこに若干の光明もある。(p307)
 
 寛容が不寛容と戦った歴史の証言をアメリカの裁判記録から抜粋しよう。
 「我々と同じ意見を持っている者のための思想の自由ではなしに、我々の憎む思想のためにも自由を与えることが大事である。」(オリヴァー・ウェンデル・ホームズ米最高裁判事/1929ロジカ・シュウィンマー事件において(p319)
「反対意見を強制的に抹殺しようとする者は、間もなく、あらゆる異端者を抹殺せざるを得ない立場に立つこととなろう。強制的に意見を劃一化することは、墓場における意見一致をかちとることでしかない。しかも異なった意見を持つことの自由は、些細なことについてのみであってはならない。それだけなら、それは自由の影でしかない。自由の本質的テストは、現存制度の核心に触れるような事柄について異なった意見を持ち得るかいなかにかかっている」(ロバート・ジャクソン米最高裁判事/1943バーネット事件において(p319)
 
 渡辺の結論は次のようなものだ。
 人間を対峙せしめるような様々な口実・信念・思想があるわけであるが、そのいずれでも、寛容精神によって克服されないわけではない。そして、不寛容に報いるに不寛容をもってすることは、寛容の自殺であり、不寛容を肥大させるにすぎないのであるし、たとえ不寛容的暴力に圧倒されるかもしれない寛容も、個人の生命を乗り越えて、必ず人間とともに歩み続けるであろう、と僕は思っている(p318)
 
 グローバルの時代になって弱肉強食を当然としてアメリカもロシアも中国も(そして残念なことに我国でも)戦争という高価な犠牲を払って手に入れた「国際協調」を拒否するトップが権力構造の頂点に蟠踞している。二十世紀のふたつの世界大戦を「寛容」というまだるっこしい精神と手続きで総括した「国際協調」と「自由貿易」を「不寛容」と対峙しながらもう一度世界のすべての国々と共有する長い戦いが二十一世紀の最重要課題となっている。
 
 この全集にある『ノーマンさんのこと』という追悼文のような随筆は、「友情」や「敬愛」というものを誠意をもって綴られた佳作で今年読んだ諸作の中でもっとも心打たれた作品である。そのなかに現在にもっともふさわしい一文があったのでこれを引用して終わりたい。
 なおノーマンさんというのは日本生まれのカナダ人で第二次世界大戦直後カナダ公使として十年近く日本に勤務されたハーバードー・ノーマンさんで渡辺や丸山真男を始め我国文化人と深い交流のあった外交官・知識人である。1957年のスエズ動乱当時カイロ駐在のカナダ大使となり動乱の拡大阻止に尽力し世界戦争の危機を救った。しかしアメリカの一部の勢力がこれを心好とせずレッドパージ(赤色分子摘発運動、1951年にアメリカで荒れ狂ったのち一旦終息したように見えたがこの頃上院議員ジェンナー・モリスを中心として再燃した)の槍玉に上がり、追い詰められ、カイロのホテル屋上から街路めがけて投身自殺をとげられた。渡辺はノーマンさんの死に深い悲しみと悲憤の筆致でこの文を書いている。
 
 我々は、原子爆弾に恐怖を抱いているが、原子力が爆弾に応用され、これが実際に使用されるような条件を作り出すのが、正に「神馬」のごとき「神童」たちであると考える時、原子爆弾以上に恐怖すべきものは、正に「機械的に頭の良い」人間であるということにもなる。/頭の良い人間が機械的になったら、思いやりや、話し合いや、自己の行為の意義への反省や、未知なるものに対する畏怖、有限な人間能力への認識などを喪失してしまった非人間になるはずである。(p357)
 
 
 
 
 
 
 
 
  
 

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