2018年10月1日月曜日

過去を軽んじていると

 早いもので今年ももう十月だ、余りの時の速さに唖然とする。毎日が日曜になって、発見も付け加えるべき新たな習慣もない繰り返しでは日日の重みが無くなってしまうのも致し方ないというものか。
 二三年前から近しい友人がぽつぽつと亡くなっていく。学校時分と勤め関係の親友だけでなく今年は幼友達が急死してショックの種類が少々ちがうのに戸惑った。本人でなく連れ合いを喪った友人も何人かいるがこれも始末が悪い。子どもが独立しているから当然独りずまいになるわけで、それを思うと寂しさが身に沁みて切なくなってくる。十二月には喜寿になり妻も今年後期高齢者入りした老夫婦としてはそんなに先にならないうちにどちらかが欠ける可能性が高まっているわけで、わが身がひとりになる実感がリアルになってくるにつれて寂寥感がつのるのをおさえ難くなる。
 
 今年読んだなかで最も心に残っていることばを探してみると井上ひさしの「いつまでも過去を軽んじていると、やがて未来から軽んじられる」が浮かんだ。これは彼の「絶筆ノート」にあるもので全文はこうだ。
 過去は泣きつづけている――たいていの日本人がきちんと振り返ってくれないので。/過去ときちんと向き合うと、未来にかかる夢が見えてくる/いつまでも過去を軽んじていると、やがて未来に軽んじられる/過去は訴えつづけている
 
 過去――歴史というものが時の権力者の都合のいいようにつくられることは古事記・日本書紀の古から連綿とつづいてきている事実だ。近い例では戦前の「神国日本の不敗神話」だろう。いわく、蒙古襲来は神風が吹いて大軍を退けることができた、日清・日露の戦争も大国の戦力を神国の霊力で圧倒した、と。しかし実は我国黎明期の「白村江(はくすきのえ/はくそんこう)の戦」では惨めな敗戦を喫しているのだがこのことは歴史の教科書から削除されていた(戦後教育の第一期生であるわれわれも一切教えられなかった)。ちなみに白村江の戦とは天智二(663)年百済の再興をめざして天智天皇が四万近い軍勢を送って百済王の支援を図ったが唐と新羅の連合軍に敗れた戦いである。
 不敗神話を信じさせられた日本国民は我国をはるかに凌駕する物質力を有する米・英・諸国との無謀な戦争に導かれ「一億玉砕」寸前に終戦した。人類史上初めて「原爆」という非人間的な殺人兵器の洗礼に見舞われ『不戦』を誓ったことを軽んじて『自衛力』を保持している。明治維新以来の富国強兵・殖産興業による「近代化」という『進歩・成長志向』の誤りを教えられたことも軽んじて戦後経済の高度成長路線を邁進し、「オウム真理教」による「地下鉄サリン事件」を招き、「3.11福島第一原子力発電所事故」という未曾有の惨事に遭遇した。サリン事件は明治以来の近代化・進歩成長志向の『精神的破綻』であり、福島原発事故はその『物質的破綻』の究極の証拠であるにもかかわらず『進歩・成長』を信奉する陣営の力は一向に衰える気配もなく、社会からますます『寛容』さが失われつつある現状はいかんともしがたい。
 
 ここ数年の自然災害の過酷化はすさまじいばかりで「地球温暖化」の影響は否定し難い。しかし河川の氾濫や土砂崩れによる甚大な被害は徳川時代以来の歴史の教訓を「軽んじた」結果であることは明らかだ。
 徳川幕府が「諸国河川掟(しょこくかせんおきて)」を示したのは寛文六年(1666年)のことである。三百余に分割、地方分権された諸藩は新田開発を競い、また、山間地の樹木が大量に伐採され山林の荒廃を招き土砂流失が水害の発生を助長する結果となった。これに危機感を覚えた幕府が乱開発を抑制するために諸藩に示したものが「諸国河川掟」であった。「一、山林伐採で草木を根こそぎ掘り取ってしまうから雨風が激しいと土砂が流出し河川を堰き止めて水害を発生させてしまう。今後は根を取ることを禁止する、二、河川上流の乱伐したところにはこの春以後木苗を植栽すること、三、河川敷への田畑の開発、山中での新規の焼畑はこれを固く禁ずる」の三か条が老中名義で通達された。この時期やその後の水害や津波の教訓を表した石碑などが今も多く残っていることを身近に見聞きした人も少なくないであろう。
 乱伐を控えるどころか山を切り崩して宅地を造成し、河洲に田畑を作るのではなく海を埋め立てて土地造成する。なおかつ、里山の乱開発、坊主山に植林せずに放置する。どうみても「河川掟三カ条」の教訓が無視されている。
 
少子高齢化、財政赤字の累積、社会保障制度の先行き不安、これらの示す「未来」は予測不能で不透明だ。政治はこれらの問題に真剣に取り組む姿勢を示さないばかりか、自説に反対する考えを無視し、自身の進め様としている一部の勢力に有利な政策に与する学説だけを採用し、短期的で自陣に有利な勢力の受け入れやすい政策ばかりを採用している。
 これでは次ぎの世代に果すべき責任を誰一人、現世代は負っていないことになる。井上ひさしさんは「やがて未来に軽んじられる」と云ったがこのままでは「未来の人たちが軽んじられる」ことになってしまう。しかしそれは、やがて結果として、未来に軽んじられることを意味していないか。
 
 もういちど噛みしめよう、「いつまでも過去を軽んじていると、やがて未来に軽んじられる」ということばを。
 
 
 
 
 
 

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