2020年8月10日月曜日

名ゼリフの効用

 「強くなければ生きていけない、優しくなければ生きて行く資格がない」。これはレイモンド・チャンドラー描く探偵フィリップ・マーロウの名ゼリフですが久しぶりに『ロング・グッドバイ』を読んでやっぱりスカッとしました。これは早くに清水俊二訳でハヤカワ・ミステリ文庫にあったものですが、新たに村上春樹訳が出たので読んでみたくなったのです。そして満足しました。700ページを超す大作なのですが数日で読み終えました。原作がスキのない推理とスペクタクルを静謐なタッチで描かれた名文であるのはもちろんなのでしょうが(原文が読めないので確かではありませんが)、村上春樹の翻訳がこれまた稀代の名訳に仕上がっているのです。相当入り組んだ構成になっているので集中力を保ってサーッと読み切らないとこんぐらがってしまうおそれがあるのですが、訳がうまいので少しもひっかかることなくズンズン読み進むことができました。小説ではあまり経験したことはありませんが専門書に日本語と思えないような脈絡のとりづらい訳文があって、まったく内容が理解できないものがあります。大教授といわれる人の「監訳」ものに多く、多分ゼミの学生や助手(今は助教というのか)の何人かに翻訳をさせてろくにチェックもしていないからでしょう。そんななかに重要な書物が含まれていることも少なくなくてずいぶん苦労したことを覚えています。
 
 愚痴はこの辺にして文中の名文をいくつか紹介しましょう。
 
 さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ。これが『ロング・グッドバイ』中もっとも有名な名文です。本書の『長いお別れ』という書名もこの文をひねったものなのでしょう。原文は「To say goodbye is to die a little.」となっていてこれをどう訳すかがチャンドラー・ファンのあいだでいつも話題になる文章なのです。そして今回村上春樹はこのフレイズの原典を見いだしました。フランスの詩人エドモンド・アルクールの次の詩が下敷きになっているのです。「離れるのは少し死ぬことだ、それは/愛するもののために死ぬことだ。/どこでもいつでも、人は/自分の一部を残して去っていく」。
 ラストの「人は/自分の一部を残して去っていく」というフレイズ、魅力的ですね。
 
 「アルコールは恋に似ている」と彼は言った。「最初のキスは魔法のようだ。二度目で心を通わせる。そして三度目は決まりごとになる。あとはただ相手の服を脱がせるだけだ」/「どこがいけない?」と私は尋ねてみた。
 「彼は禁酒した酒飲みかもしれません」と私は言った。「そういう人物は往々にしてこちこちのピューリタンになるんです」
 コンマが多く混ざるしゃべり方をする人物だった。分厚い純文学でも読んでいるみたいだ。
 人間の知性の精緻きわまりない浪費。それは広告業界以外ではまずお目にかかれない種類のものだ。
 これらのどのフレイズもおぼえておいて機会があったら使ってみたいものばかりで、最初のヤツなどは私がもう少し若かったら魅力的な女性を口説くときにささやけばイチコロになること必定の名ゼリフですね。
 
 しかし彼にはもっと辛口の文章もあります。
 我々はデモクラシーと呼ばれる政体の中に生きている。国民の多数意見によって社会は運営されている。そのとおりに動けば理想的なシステムだ。ただし投票するのは国民だが、候補者を選ぶのは政党組織であり、政党組織が力を発揮するためには、多額の金を使わなくてはならない。誰かが彼らに軍資金を与える必要がある。そしてその誰かは――個人かも知れないし、金融グループかも知れないし、労働組合かもしれないし、なんだっていいのだが――見返りに気遣いを求める。
 これなどは実によく民主主義の本質をついているではありませんか。保守層の多くの人たちは、長年の「決められない」自民党政治と民主党政治にあいそをつかして、期待をもって第二次安倍政権を支持してきました。彼はメニューはいろいろ差し出してくれましたが何ひとつ「国民のため」になる政策は実現してくれませんでした。仲良しの一部の人の利益ばかりを優先して、復興オリンピックと銘打っていますが肝心の東北の復興は未だ道半ばですし熊本も、広島も、福知山も同様です。トランプさんべったりで何千億円、何兆円(辺野古移設を含めればさらにもっと多額になるでしょう)という防衛機器をいい値で購入したり、破綻している「核燃料サイクル計画」に今後総額12兆円をつぎ込もうとしています。それなのに新型コロナウィルス感染症対策で「休業補償」するのを渋っています。森友・加計問題、桜を見る会、財務省公文書改ざん問題など、岩盤といわれる保守の中核層でも「もう安倍はいい」という嘆きがこぼれているのにズルズルと安倍一強を引きずっているのも「彼に代わる人材」が自民党に見当たらないからです。
 
 でかい金はすなわちでかい権力であり、でかい権力は濫用される。それがシステムというものだ。そのシステムは今ある選択肢の中では、いちばんましなものなのかもしれない。しかしそれでも石鹸の広告のようにしみひとつないとはいえない。
 賭博というものが法律で認められている限り、やくざを押さえ込むことは誰にだってできない。そのかたちや規模を問わず、賭博が存在する限り、やつらははびこるんだ。
 
 これらの文章は専門家の硬い学術文ではありませんがことの本質をつきつつ「庶民の真情」をズバリと表してくれているではありませんか。
 大阪万博はカジノ誘致を条件としていますが「賭博が存在する限り、やつらははびこるんだ」というマーロウの言葉にどう反論するのでしょうか。
 
 

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