2020年8月24日月曜日

夏がくーれば

 毎年八月が来ると思いだすことがあります。戦後しばらくして『原爆の子ら』という映画が製作されました(昭和27〈1952〉年8月公開)。京都市の鑑賞映画に指定されて私たちの小学校も近くの映画館でクラス全員で見て、鑑賞後感想を語り合う会が開かれました。当時5年生だった私は純真無垢で世間ずれしていなかったから(言い方を換えれば無知であったから)、「すごい映画やった!でも、どうしてあんな場面が撮影できたんやろか?それが不思議やわ!」と発表しました。するとすかさず映画館主の息子とその親友が「アホやなぁ、トリックに決まってるやんか!?」とチャチャを入れたのです。「そんなことない!あれはホンモンや!」私は頑強に言い張りました。ヤツらは攻撃の手を緩めず「アホや」「バカだ」とあざけったのです。口論は延々と繰り返され、彼らの正論に反論できなくなった私は泣き出してしまいました。黙って成り行きを見守っていた先生が助け舟を出してくれました。「ハイ、おしまい。そうやね、市村君はほんものやと思っているんやね。それもまちがっていないよ」と頭をなでながら泣き止むまでヨシヨシしてくれたのを覚えています。
 もちろんヤツらが正解なのですが実写版のトリックを使った映画などはじめてだった私にそれを見抜く眼力は備わっていなかったのです。映画は衝撃的で『原爆』の怖ろしさは強烈に印象づけられました。
 
 当時の西陣には映画館が7~8館、実演(大衆演劇)の小屋が2軒もありました。私を泣かせたヤツらとはその後友達になり中学の1年から彼のオヤジの映画館と親戚筋の2館がフリーパスとなって毎週10本近く映画を見るようになりました。中学の3年間で邦画洋画合わせて1000本は観たにちがいありません。今では考えられないことですが当時西陣のような場末の映画館は2本立て3本立てが普通で洋画は弐番館もの(旧作)でした。マセていたのか洋画はフランス艶笑喜劇が好きでジーナ・ロロブリジーダのなんともエロい姿態にうつつを抜かしていました。ちょうどそのころ日活が映画製作を再開して千本日活で上映されるようになったのですが、先日亡くなった渡哲也や石原裕次郎の映画は「陽のあたる坂道」1本しか観たことがありません。映画通を自任していたナマイキな映画野郎の私たち(類は集を呼ぶでそんな連中が私のまわりには多かったのです)にとって、裕次郎や小林旭、美空ひばりなどは駆け出しの三文役者と見下していたのです。したがってテレビドラマ『西部警察』も観ていませんから、今から思うと私の映画観は非常に歪んでいるのかもしれません。
 
 映画に限らず要は「へそ曲がり」で「偏固(へんこ)」が私の性情なのでしょう、みなが「いい」というものや「ただしい」ということは疑ってかかるのが常なのです。ですから、南京虐殺にしても慰安婦問題にしても相当「確からしい」とは思っていてもシンから信じたくなかったのです。それがこんな歌を読まされたのではなにもかもがはっきりと「ひとつの真実」に収斂されてしまうではありませんか。(以下は2020.8.13京都新聞「詠まれた戦争/75年目の記憶遺産/戦後に破られた沈黙(歌人・吉川宏志筆)」からの引用です
 
 戦時中には検閲があり、日本軍の闇の部分が短歌として発表されることは、ほぼ皆無だった。戦後になって(略)少数ながら、戦争の真の残酷さを描いた歌集が刊行されている。
〈強姦をせざりし者は並ばされビンタを受けぬわが眼鏡飛ぶ〉
〈犯されしままに地上に横たわる女を次の兵また犯す〉   …川口常孝「兵たりき(1992年)」より
 兵士に罪悪を行わせることにより、人間性を喪失させて、すべてを支配してゆく組織の恐ろしさが見えてくるのである。
〈戦友(とも)の振るう初のひと突きあばらにて剣は止まる鈍き音して〉
〈「捕虜ひとり殺せぬ奴に何ができる」むなぐら掴むののしり激し〉…渡部良三「小さな抵抗(1994年)」より
 新兵に捕虜を殺させて、殺害することに慣れさせる訓練が行われていたのである。
 
 実際に戦地にあって経験したことがそのまま詠われているのですから何人といえどもこれを否定することはできません。虐殺も強姦も強権による「女郎屋」経営も真実ではないと歴史を修正する勢力が平然としてそれを否定してきましたが、それならこれらの歌人は「うそ」を詠んでいるのでしょうか。
 
 これとは別の衝撃的なことがありました。歴史に正面から向き合い何が真実なのかを追及する誠実なひとならあいさつ文の「使いまわし」など絶対にしないのではありませんか。それが実際に今年の広島と長崎の平和式典で安倍総理がやったのです。地名と一部の文以外はまったく同じあいさつ文が読まれたので、当然のことながら遺族は憤りSNSは炎上しているのです。
 「原子爆弾の犠牲となられた数多くの方々の御霊に対し、謹んで、哀悼の誠を捧げます」で始まるこの挨拶は第四段落以外はほとんど同じものです。「永遠の平和が祈られ続けている、ここ広島(長崎)市において、核兵器のない世界と恒久平和の実現に向けて力を尽くすことをお誓い申し上げます。原子爆弾の犠牲となられた方々のご冥福と、ご遺族、被爆者の皆様、並びに、参列者、広島(長崎)市民の皆様のご平安を祈念いたしまして、私の挨拶といたします」と結ばれたこのあいさつ文を安倍総理の真情の吐露と感じる人がどれほどいるでしょうか。
 
 したがって15日の終戦記念式典の首相式辞も空疎なものになっています。
 安倍さんは「今日、私たちが享受している平和と繁栄は、戦没者の皆さまの尊い犠牲の上に築かれたものであることを、終戦から75年迎えた今も、私たちは決して忘れません。」と述べていますが、何故犠牲にならなければならなかったのか、その原因と責任については一切触れていません。だから「反省」をもって犠牲者に謝罪することばが一言もないのです。
 『積極的平和主義』を謳い国際社会での『役割』を強調しているのですが、その中身が判然としないので、「核廃絶」にどう取り組むのか、「世界平和」を実現するために、どう「橋渡し役」を果たすのか皆目見当がつかない空虚な言葉の連なりになっています。
 安倍さんは、終始「言葉あそび」の総理でした。何度も起こった閣僚の不祥事に際して「任命責任」を口にしてきました。しかし具体的に「責任」をとったことは一度もありませんでした。
 
 あれだけ忖度してきた官僚たちから、「安倍はもういいよ、だって責任とらないもの」というあきらめの嘆きがつぶやかれていることをご本人はご存じなのでしょうか。
 

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