2020年12月28日月曜日

道真と貫之

  今日見れば鏡に雪ぞふりにける老いのしるべは雪にやあるらむ。これは紀貫之の和歌です、鏡に映る我が面の白髪を雪に見立てた老いの嘆きの詠です。貫之は872年に生まれて945年73才で没していますから私はもうすでに彼よりずっと年古()っていることになり総髪白化して彼に倣えば全山雪に覆われた雪山というあり様になってしまいました。貫之は当時とすれば随分長寿だったと思われ今に引移せば九十代にはなるのでしょうか。私はたいして苦労していませんが貫之は大変な変革期に生きていますからその苦労は一方ならずだったと思います。

 

 最近貫之と菅原道真に関する本を何冊か読む機会がありはじめて気づいたのですが、ふたりはわずか27歳しか違わないのです。道真の生没は845年と903年ですからそういう計算になりその58年の生涯が波乱万丈であったことは多くの人が知っている通りです。宇多、醍醐の両帝に重用され右大臣にまで上り詰めた人生の頂上から(藤原)時平の讒言により大宰府に配流され非業の死を遂げた道真の怨霊は都に大災厄をもたらし京(みやこ)人の心胆を寒からしめました。その霊を鎮め崇めるべく「天神さん」として御霊神と奉られ今日まで学問の神様として信仰されています。

 

 道真と時平の確執はこんな見方もできるのではないでしょうか。

 飛鳥、奈良、平安の三世紀(七世紀から九世紀)をかけて先進文明国・中国に追いつけ追い越せと律令制と仏教と漢字漢文の移入に成功した我が大和の国は政治社会制度と文化の両面で国家体制の完成を見たのです(と当時の人は考えたのでしょう)。そこで七世紀から隋と唐へ派遣していた遣唐使を廃止(894年)するのですが、それを断行したのが道真であったのは歴史の皮肉かもしれません。なぜなら国家体制の完成は国内的には朝廷の勢力範囲が確定・安定したことも意味するわけで、この時期になると軍事力よりも統治能力が重要になってきて、武闘派から官僚派に権力が移動することになります。大伴氏紀氏が二大軍事勢力で菅家は紀氏と強いつながりがありましたから、道真は没落する武闘派にとって最後の砦とみられていたでしょう。しかし賢明な道真は宇多・醍醐帝の強力な「ヒキ」を固辞して台頭する官僚派・藤原氏との権力争いに距離を置こうとするのですが結果的に時平と右左大臣を分け合うような存在に押し上げられるのです。結局時平は讒言という引き金で「クーデター」を起こして道真を追放(901年)、権力を握ることに成功したのです。

 

 こうした政治情勢は官吏登用制度にも変化をもたらしました。文字を持たなかったわが国は仏教公伝(583年伝来)の経典を通じて漢字(漢文)を移入します。まず公的文書を漢字漢文で作成するようになった社会上層部の人たちは、次いでやまと言葉の記録にも漢字漢文を用いるようになります。そこで困ったのが漢文には「テニヲハ」――助詞助動詞がないことと、何といっても「語順」の違うことでした。使い勝手の悪い漢字と漢文をなんとか日本化しようと悪戦苦闘したひとつのエポックが『万葉集』の編纂・成立(780年)です。漢字伝来から約二百年かけて漢字の「音韻」をやまと言葉にあてた「万葉仮名」という形で「漢字の日本化」に成功したやまとの人たちが、漢字(の借字)の草書体を「ひらがな」として発明、やまと言葉を正確に記録できる「日本語の文字」が完成するのは平安時代――九世紀中ごろでした。その「仮名文字」が公式な文書としてはじめて用いられたのが貫之らが選集した『古今集(905年)』だったのです。

 律令時代、お手本の中国の文献を読み解くために漢字漢文の知識能力は必須でした。氏素性よりも漢字漢文能力を試験で選抜されることが官吏登用の正道でしたからある意味で平等だったのです。しかし道真追放後は藤原氏の専横が朝廷を支配するようになり「門閥政治」が横行、一昔前まで有力な出世の道具だった漢字漢文の能力がほとんど価値をなくなってしまったために貫之たち知識人も殿上人の資格もない下級貴族の地位に甘んじなければならなくなるのです。そうした窮境から彼らを救ったのが文化人天皇の宇多・醍醐の両帝でした。延喜五年(905年)奏上された古今集の仮名序にはこの事業に賭けた貫之らの並々ならぬ覚悟がみなぎっています。

 「やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」ではじまるこの仮名序には、歌の効用への切迫した信頼が緊張感ある文章でつづられています。無用化した武力にかわって「歌の力」で人の心を動かしたいという希求には、摂関政治に蹂躙される社会への切実な反逆心が潜ませてあったかもしれません。しかし、それよりも、古今集のもつ「革新性」は「文字革命」であったことではないでしょうか。借り物の「漢字」というやまと言葉になじまない文字で長い間不本意な時間を過ごしてきたわが日の本にようやく「日本語の文字」として発明された「仮名文字」が史上はじめて『公的な文字』として使用されたことはその後を考えればこれほどの『文化革命』はなかったのではないでしょうか。もちろんそれを主導したのは宇多・醍醐帝でありますが貫之たちのサポートがあって成就した事業ですから両帝と貫之たちの共同事業であったと言ってなんら憚ることはないでしょう。

 

 後年貫之と古今集は正岡子規によって罵詈雑言を浴びせられます。「貫之は下手な歌よみにて『古今集』はくだらぬ集に有之候」。これは子規の「歌よみに与ふる書(明治三十一年)」の言葉ですが、ここで子規は古今集と貫之を徹底的に批判・否定します。それは新時代を迎えあらゆるものが新規を遂げようと改革・改新を努めるなかで和歌のみが御歌所などという旧態依然の守旧派が牛耳って一向に時代の変革に向き合おうとしない風潮に業を煮やした若者――当時子規三十二才――の和歌革新を願った悲痛な叫びだったのだと解すれば納得いきますが、しかし余りに皮相的な批判だったように思います。千年という時を経て伝統という「同調圧力」にさらされ感情と感覚の類型化・固定化をつづけてきたのですからそれを破壊するためには子規のような「暴力」が必要だったのでしょうが、今にして思えば子規の行なったことは「和歌(文学)革命」なのに対して「古今集」のそれは『文化革命』だったのですからどちらが歴史的に大きな影響を及ぼしたかはいうまでもないと思います。

 もうひとつの子規の悪影響は「万葉集礼賛」です。まがりなりにも二つの歌集を読んでみると万葉集はむつかしすぎるのです。言葉が古いから古語辞典か解説書を参考にしないと理解できません。そこへいくと古今集は今の私たちの感情や季節感の「源流」ですからことばの調べも近く感じられます。古今集を徹底的に排除する子規には同調できません。

 

 SNS時代の今ですが先人の並々ならぬ苦労が発明した「日本語」をわずか数語の類型文で感覚や感情を表現することを満足している若ものが「いたましい」と思うのは老爺の僻事(ひがごと)なのでしょうか。

この稿は大岡信の『紀貫之』を参考にしました

※ 本稿で今年の締めといたします。来年が善き歳となりますように。

 

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