2021年6月28日月曜日

言葉と思い

  最近奇妙な話を聞きました。イベントの観客を上限一万人に限定するのは人流の増加によるコロナ感染リスクを避けるためだと考えていたのですが、オリンピック関係者は人流には含まれないというのです。従ってオリンピック開会式のオリンピックファミリーやスポンサー関連の約一万人は上限一万人に含まれない別枠として開会式に入場できるのです。ということは「人流」は開会式に限って二万人に膨れ上がるのですが、これはオリンピック関係者という「観客」でない人たちによるものだから「観客上限一万人」という「決まり」は変更する必要はないらしいのです。「人」流を制限して感染リスク低減を図るという趣旨の「取り決め」を定めたにもかかわらず観「客」は「人」でないというのですからこれは『奇妙』な理屈です。こんな「詭弁」を弄して人流が増大しコロナ感染が拡大したら責任はどうするのでしょうか。酒の提供も条件を付けて容認しようとしましたがさすがにそこまで詭弁を「強弁」する『厚顔』さは恥ずかしかったようで早々に撤回しました。

 それにしても事あるごとに「専門家の先生方のご意見」を『隠れ蓑』に世論の矢面から身をかわしてきたのに、最後の最後でなりふり構わず「オリンピック開催強行」を図ったあとで、「専門家の先生方のご意見に『中止』のご意見はなかったので」という橋本大臣の言い振りは何とも盗人猛々しい卑屈さ」がにじみ出ていました。先生方の意見の出る前に「開催」を決定・発表したのですから尾身さんもいまさら「中止」は言えないわけで何とも「姑息」な手に出たわけです、政治の側は。

 

 結局「国民の健康と安全を守るのは私の責任です」という菅総理大臣の『公言』にもかかわらず、ステークホルダーたる『スポンサー』の「ご意向」に阿った丸川珠代五輪相の「忖度」発言が却って「アサヒビール」の信用をガタ落ちにしてしまったように、IOCをはじめとしたオリンピックファミリーやスポンサーの方が「国民」より『大事』なことがあらわになった、ここ数日の政府をはじめとした政治の側の人たちの動向でした。

 しかしこんな姿が明らかになると、緊急事態宣言解除に伴うイベント観客上限を1万人にしたのはオリンピックの観客を一万にするための事前工作だったのだという一部メディアの憶測が真実味を帯びてきます。なぜなら関係者が一万人以上いるわけですから無観客や五千人の観客では関係者の数が目立ってしまいますからね。

 

 池袋暴走事故の飯塚被告もあんな発言をしていいのでしょうか。事故はブレーキとアクセルを踏み間違えたからでなく、電子系統でアクセルとブレーキが同時に壊れたからで、電子制御では再現不能なことが起こることがあって私どももよく経験しています、と発言したのです。警察の車両検査で不具合が見つかっていないにもかかわらず、です。

 なぜこれが飯塚被告にとって致命的になるかというと、彼は計量学の専門家で測定器分野で世界最高級の研究成果を上げ国際度量衡委員会で日本人初の副委員長まで務めています。そして官僚最後の地位は工業技術院院長で3年間在任して退官、日本計測自動制御学会会長などを歴任したのです。工業技術院というのは簡単にいえば[JIS(日本工業規格)]の総元締めです。ほとんどの工業・電子製品についている「JISマーク」を管理している組織で、勿論自動車を構成している多くの部品にもこのマークは付いていますし、このマークを取得しないと部品として自動車メーカーは採用しないでしょう。そして問題のブレーキとアクセルの自動電子制御システムは日本計測自動制御学会(員)が研究開発・承認したシステムに違いありません。

 彼の経歴を考えると、まさに事故を起こしたブレーキでありアクセルの品質保証や電子制御システムの安全性や安定性を日本にもたらすことを一生の仕事として先端を走り指導してきたのです。その彼がブレーキとアクセルの安全性や電子制御システムの有効性を否定しているのは何とも奇異と言わねばならなりません。もし彼が本心から、真実そうした言動を行っているのだとすれば、それは自分の人生を否定することにならないでしょうか。

 老人特有の自己防御本能であったり弁護士の裁判テクニックの指導に基づくものかは判断できませんが、彼の輝かしい軌跡に思いやるならば冷静に、沈着に自己の人生を見つめ直してほしいと願うばかりです。

 

 オリンピックに携わっている政治家や役人にしろ飯塚氏にしても「ことば」に「信念」が込められていないのです。言葉が単なるコミュニケーションの道具に成り下がっているのです。とにかくその場がしのげればいい、自分の信念であったり思いとは別の口先だけのものとして「ことば」が使われているように感じます。

 しかし「ことば」というものはそんなものではないはずです。まず「思い」があってそれをどう「表わせ」ばいいか、もっともふさわしい言葉を選んで、つなげて、「話す」。内に熱い思いと信念があってそれを最適に表現するにはどんなことばが良いか、悩んで選択する。「ことば」と「はなす」は本来こんな悩みやためらいの結果として表れるのです。

 自分を偽った「ことば」を「つなげ」てもほんとうの「コミュニケーション」にはなりません。

 

 決まり切った「テンプレート」で短文をやり取りする「SNS」でひとが「つながる」ことはできないのではないでしょうか。だから「友だち」のできるはずもないのです。

 

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